荒れ野の誘惑
2025年3月8日・9日 四旬節第一主日
福音書 ルカ4: 1~13 (新107)
4: 1さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、 2四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。 3そこで、悪魔はイエスに言った。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」 4イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。 5更に、悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。 6そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。 7だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」 8イエスはお答えになった。
「『あなたの神である主を拝み、
ただ主に仕えよ』
と書いてある。」 9そこで、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。 10というのは、こう書いてあるからだ。
『神はあなたのために天使たちに命じて、
あなたをしっかり守らせる。』
11また、
『あなたの足が石に打ち当たることのないように、
天使たちは手であなたを支える。』」
12イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」とお答えになった。 13悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。
今日からイエス様の十字架をおぼえる四旬節に入りました。四旬節はイエス様が荒れ野で誘惑を受けられる場面で幕を開けます。イエス様のご生涯は、栄光に彩られるばかりのものではありませんでした。イエス様も人の子として試練に遭われた、その最大のものが十字架であるわけですが、イエス様のそのようなご経験を思い起こすために今日の箇所が選ばれています。
今日の聖書の物語の冒頭では、イエス様が荒れ野の中を霊によって引き回され、四十日間悪魔から誘惑を受けられたと書かれています。ここでいう「誘惑」とは何でしょうか。イエス様は誘惑に負けるとどうなってしまうのでしょうか。誘惑とは私たちに神様の愛を忘れさせてしまうものです。誘惑に負けるとイエス様はご自分が神の子であることを忘れて、ただの人として生きていくことになります。イエス様が誘惑に負けて、急に伝道旅行を辞めて実家に帰って、自分が長生きすることとか貯金することばっかり考え始めたら、そんなの嫌ですよね。
しかし安心してください。神の力は悪魔の力に打ち勝ちますので、イエス様はこの誘惑に惑わされず、神の子として活躍していかれます。それではこの時イエス様が受けられた誘惑とは何だったでしょうか。今日の聖書を見ますと三つの誘惑が出てきます。それは、パンの誘惑、力の誘惑、そして試みの誘惑です。
一つ目はパンの誘惑です。悪魔はイエス様に「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ」と言います。イエス様が荒れ野での四十日間のあと空腹をおぼえられたので、悪魔はこのようにそそのかしたのでした。
それに対してイエス様は「人はパンだけで生きるものではない」とお答えになります。私はそうする必要がない、というのです。パン自体は悪いものではありません。悪魔の誘惑はみんなそうです。パンによって養われることも、権力と栄光を手にすることも、安心安全が守られることも、決して悪いことではありません。しかしそれによって神の愛を小さく縮めてはならないということが言われているのです。自分の人間的なものさしに従って、神から何かを引き出そうとすること、そしてそれを神からの愛情の証にしようとすること、それこそが誘惑であるからです。
イエス様は「人はパンだけで生きるものではない」と言われました。イエス様にとっては本当にそうだったのでしょう。実際、荒れ野にいた四十日の間、イエス様は空腹を感じることがありませんでした。お腹が減ったと感じられたのは荒れ野での四十日間が終わったあとのことです。これまでの四十日間、パンなしで神様が体を養ってくださっていたことをイエス様は忘れていませんでした。
このことを忘れてしまったら、イエス様は神の子ではなくなってしまいます。ほかの人間と同じように、自分の体を養うものはパンしかないと思い込んで、神様との愛の通路を狭めてしまいます。しかしそのような試みは、神の子イエスには通用しませんでした。
二つ目の誘惑は力の誘惑です。続いて悪魔はイエス様に「わたしを拝むなら、世界の一切の権力と繁栄を与えよう」と告げました。私にちょっと頭を下げさえすれば、あなたは世界の王になることができるというのです。この時悪魔はイエス様に何を忘れさせようとしているでしょうか。それは、イエス様がそんなことしなくても本来王であるということです。
イエス様はまことの王、永遠の支配者、世界を統べ治める方です。権力も繁栄も本来すべてイエス様のものです。しかし空腹でみすぼらしい格好をしたイエス様に悪魔は語りかけます。「あなたは王などではない。今の自分を見てごらん。権力が欲しければ、神ではないものに頭を下げなければならない。人間はみなそうしているのだよ…。」しかしイエス様は王としてのご自分を決してお忘れになりませんでした。こうして二番目の誘惑も退けられます。
三番目の誘惑は試みの誘惑です。「ここから飛び降りて、神が守ってくださるか試してみろ」というものでした。神が守ってくださっているか確かめるために、何らかのアクション、何らかのしるしが必要だというのです。この時悪魔はイエス様に何をそそのかしているでしょうか。「神がお前を守っているか、時々目に見える形で確認しなければならない」ということです。
神の守護を確認するというのは一見なんということもない行為でありますが、しかしこういうことをしたがるのはどういう人であるかを考えてみてください。神に愛されているか不安な人、神に愛されているという証拠が欲しい人、常に神の顔色をうかがって、神と分離している状態の人です。そういう状態に悪魔はイエス様を落とし込もうとしています。
しかしイエス様はそれをきっぱりと退けます。神の子はわざわざそんなことする必要がないからです。そして「あなたの神である主を試してはならない」と言われます。イエス様は神様の愛情を確認する必要などありません。神様に愛されているのが当たり前、神様が守ってくださるのが当たり前、神と一体であることが当たり前であるからです。イエス様にとって神に守られているということは、息をするのと同じくらい自然なことです。
そんなイエス様にとって屋根から飛び降りるのは、あえて人間の世界のたとえで言うならば、給料が本当に支払われるのか会社にしつこく確認するのと一緒、付き合ってる人に自分のこと好きか何回も確認するのと一緒です。そういう試し行動は人間関係を破壊しますよね。信頼関係が損なわれるからです。疑っているのが見え見えだからです。神様との間でそういうことをする必要はないとイエス様は言われています。
以上が本日の物語でありましたが、この荒れ野の誘惑の話から私たちは何をメッセージとして受け取るべきでしょうか。私がこれではないと思うものを先に言います。「お腹が減ってもご飯を食べないこと」「権力や繁栄を望んではならない、それらは汚いと自分に言い聞かせること」「神様の愛を確かめるためなら何でもするほどの勇気を持つこと」。誘惑に勝つというのはそういう話ではないと私は思います。
そうではなくて、私たちにとっての誘惑とはこのようなものではないでしょうか。「この方法でしか神様は私を養えないと決めつけること」「神様が本来自分に与えてくださった力を忘れてしまうこと」「神様の愛を確かめたくて神様を試すこと」これらのことが私たちにとっての誘惑なのではないかと私は考えます。
悪魔はイエス様に「お腹が減っているなら石をパンに変えたらどうだ」と言いました。主食であるパンは人間がこれによって養われていると感じるものの象徴です。神様は本当はパン以外の方法でも私たちを養うことができますが、私たちは自分を満たすためにはパンを食べるしかないと思っています。
同じように私たちは、神様が何かこちらがオーダーした特定の方法によって私たちに応えてくれることを望みます。それは受験の合格であったり、嫌いな人がいなくなることであったり、結婚することであったり、様々です。しかしそればっかりやっていると私たちはどんどん神様の本来の姿が思い出せなくなってしまいます。神様は「その辺の石ころからでも神の民を作り出せる」ような、ユニークで奇想天外なお方だからです。受験に落ちて嫌いな奴に囲まれて結婚できなかったとしても、それでも本来神様は、私たちを最高の幸せに導くことができるからです。
また悪魔はイエス様に「権力が欲しいなら私を拝め」と言います。同じように悪魔は私たちに、私たちはただの人間で、無力で、無能で、自分の望む人生を送りたければ悪魔に頭を下げたり自分より力のある存在に庇護してもらったりしなければならないと思いこませます。
しかし私たちは本来神の子です。光の子です。イエス・キリストのしるしを身に帯びている者です。イエス様が生まれながらに永遠の王であるように、私たちには私たちの人生を切り開くだけの力が本当は与えられています。自分で自分を満たし愛する力が与えられています。そんなのできないと思って、自分を卑下して自分を否定するというのはひとつの落とし穴です。私は無力であるという思い込みは、その私をお造りになった神様から私たちを遠ざけてしまう、大きな誘惑であるからです。
そして悪魔は「神様に守られているか確かめたかったら屋根の上から飛び降りろ」と言います。こういう試し行動は親しい人間関係において良く起こります。大げさに体調不良を訴えてお母さんが構ってくれるか試すとか、別れるって言って彼氏が引き止めてくれるか試すとか、そういうことです。しかし神様はお母さんでも彼氏でもありません。神は神です。お母さんや彼氏以上の存在です。私たちが試すまでもなく、神様は私たちを愛しておられます。それでも試したくなるなら、それこそが誘惑です。
ですから私たちは、誘惑に打ち勝たなければなりません。誘惑に勝つとはどういうことか。それは、神様がどんな手段を使ってでも必ず私を養ってくださる、必ず私を幸せにしてくださる、と信じることです。その「養い方」「幸せのなり方」にいちいちこっちから口を出さないことです。そして、誘惑に勝つということは、神様が本来私たちに与えてくださった力を信じることです。私には価値がない、何もできないと言って自分だけが神様の失敗作であるかのように振る舞わないことです。最後に、誘惑に勝つということは、試すまでもなく自分は神様に愛されていると信じることです。神様の気を引こうとして疑いや不健康や危険に突き進んでいかないことです。
今日は少しお話が長くなりました。四旬節第一主日のこの日、イエス様が受けられた誘惑を思い、そして私たちに向けられている誘惑を思いましょう。私たちは神の子、いつも神様と一緒、私たちはこの誘惑に勝利することが定められています。来週も引き続き、四旬節の物語を読んでまいりたいと思います。
「誘惑とは何か 神を忘れ 自分を忘れること」
3月8日・9日 教会の祈り
司)祈りましょう。
全能の神様。岩手県大船渡市で大規模な山火事が発生し、多くの方が被害に遭われました。あなたが大船渡のみなさんをお守りください。今なお消火活動、救助活動に当たられている方々をあなたがお支えください。
主なる神様。3月23日に行われる福岡県知事選挙を顧みてください。一人でも多くの人が投票に参加し、福岡の未来について考えることができますように。知事に選ばれる方が愛と正義に満たされ、社会の平和と公正のために仕えることができますように、お導きください。
恵みの神様。四旬節が始まりました。イエス・キリストのご受難をおぼえるこの聖なる日々を、祈りをもって過ごさせてください。聖書を通してイエス様のたどられた道をたどり、イエス様の深い愛と苦しみに気づかせてください。
私たちの主イエス・キリストによって祈ります。
会)アーメン
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