愛しなさい
2025年2月22日・23日 顕現後第七主日
福音書 ルカ6:27~38 (新113)
6: 27「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。 28悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。 29あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。 30求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。 31人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。 32自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。 33また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。 34返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。 35しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。 36あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」
37「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。 38与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」
今日は顕現後第七主日です。先週私たちは「平地の説教」の前半部分を聞きました。つまり四つの幸いと四つの不幸のお話しです。そこでイエス様は人間にとって望ましいと思われるような状況がむしろ神様の力が働かない状態であり、人間が最も避けたいと思われるような状況こそが神様の目から見れば幸いえあるということを言われていました。
そういう変なお話しであったわけですが、その続きにあたる今日の日課、「平地の説教」後半部分も「またなんかイエス様が変なこと言ってる~」というようなお話しです。先週の箇所に続いてこれもまた解釈が難しい部分ですが、今年の私は弱さの肯定(と、強くあらねばという責めからの解放)という視点でこの箇所を読んでいます。変な自己犠牲の強要という意味ではなくて、強さ一辺倒の価値観からの解放と言う意味でこの言葉を読むようになりました。
イエス様は今日のお話しの中で、このようなことを言われています。「あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい」「上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない」「人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい」。これもまた人間の常識に反するような、人間の目から見れば驚くような教えです。イエス様はこういう教えが得意です。
そうは言ってもキリスト教の価値観にどっぷり漬かって生きている私たちからすれば、これはある程度理解している教えでしょう。十字架で死なれたイエス様のように、私たちは愛さなければならない、自分を犠牲にしなければならない、これがどこか義務のように心にインプットされています。「殴られたら殴り返す」「奪われたら奪い返す」そんなことは言語道断、というのが今日のキリスト教の世界です。
しかし聖書の時代の人々は実際にそうやってしつけられてきました。殴られたら殴り返せ」「奪われたら奪い返せ」旧約聖書における正義は、イスラエルと敵対する民族に対して、殴られた以上に殴り返して、奪われた以上に奪い返すことです。戦争に勝って、民族の誇りと生活を防衛し、奪い取ったもので自分たちを豊かにすること、それが紛れもない正義でありました。それこそが神の祝福でありました。
そういう文化の中では、人はとにもかくにも強くあらねばなりません。強くない人には価値がないのです。そもそもこのようなメッセージの背後にはどのような価値観があるでしょうか。それは「やられたらやり返せ→それができないのは弱い人間だ、そんな人間は必要ない」「奪われたなら奪い返して来い→そんなこともできないなら一人前ではない、そんなことではこの社会で生きていけない」ということではないでしょうか。こういうメッセージを当時の人々は自分の体に受肉させ、自分の一部としていたはずです。
私たちの人生にしても、そりゃ教会に来れば「愛し合いましょう」とか言ってくれる人はいるでしょうが、しかしそれ以外のほとんどの時間は、そういうメッセージに接して生きていません。二千年前のイスラエルほどではないにせよ、私たちの生きるこの世の中も似たようなものです。強くあらねばならない、そうでなければ生きていけない、とみんなどこかで思っています。
そんな世界の中で、イエス様はこう言われます。「殴られたままやり返せなくてもいい」「取られたまま奪い返せなくてもいい」「貸したまま損してもいい」「そんなことであなたの価値は変わらない」「この世界からあなたの居場所がなくなったりしない」。それはたぶん、新しい教えであったことでしょう。弱くてもいい、勝てなくてもいい、頭悪くてもいい、そんな風に本気で言ってくれる人が二千年前のイスラエルに、そして私たちの人生に、果たしていたでしょうか?それがイエス様であるわけです。
さらにイエス様は、その弱さや愚かさに対して新しい意味を与えておられます。やられてもやり返せない、それは弱さではなくて愛である。貸したものが返ってこない、それは愚かさではなくて憐れみである。私たちが自分を恥じて、克服しようとしたり、隠そうとしたりするその弱さを、イエス様は大事な気持ちだと言ってくださっています。なぜならその弱さこそが愛と憐れみの源泉となるからです。
このようにしてイエス様は、強くあらねばならないという価値観で自分を縛り付けていた人々に対して、強さ以外の価値というのを明らかにされます。弱さのうちにある愛、一歩引いてしまう控えめさのうちにある憐れみを、私たちに示してくださるのです。そんな風にイエス様は私たちの戦う心、自分を競争と生き残りに向かわせる心を癒してくださいます。私たちが強くあらねばと自分に鞭を打っている、その心の重荷を取り除けてくださるのです。
こうしてイエス様に出会った人たちは、人生は戦いの連続でも生き残りをかけた競争でもないと悟ります。私たちの人生の目的は、弱さを悟られないことでも、勝ち続けることでも、人にばかにされないように知識の鎧をつけることでもありません。そうではなくて、神の子として、愛と赦しを生きることです。
実際に私たちは、強いばかりではありませんし、勝ち続けるばかりではありません。でも何とかこうして今日も生きています。神様が支えてくださったから、周りの人が支えてくれたから、こうして何とか生きてこられたのです。そしてその「何とか生きてこられた自分」こそが私たちの宝物です。神様の力が働いた自分、周りの人と愛を交換した自分、そういう自分を普段は意識することがないかもしれませんが、私たちはきっと、神の国ではそういう自分で生きています。来週は主の変容の主日、その次が四旬節です。また来週も集ってみ言葉を聞きましょう。
2月22日・23日 教会の祈り
司)祈りましょう。
全能の神様。社会福祉法人光の子会のために祈ります。光の子会の利用者のみなさん、職員のみなさん、そして組織を支えるルーテル教会を顧みて、祝福してください。光の子会の営みを通して、ますます主の栄光が証しされますように。
主なる神様。明日/本日午後四時から東京教会で行われる「神学校の夕べ」を祝福してください。卒業を迎える神学生を顧みて、その召命を新たにしてください。また集われた方々が祈りをもって神学生たちを宣教の場に送り出すことができるように助けてください。
憐れみ深い神様。悩みのうちにある人、病気の人、孤独な人のために祈ります。教会の中にも外にも、あなたからの癒しと慰めを必要としている方がたくさんおられます。どうかそのような方をあなたが顧みてください。こうしてみ前に集う私たちを日々隣人のために祈る者としてください。
私たちの主イエス・キリストによって祈ります。
会)アーメン
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