自分の道を進む
2025年3月15日・16日 四旬節第二主日
福音書 ルカ13:31~35 (新136)
13: 31ちょうどそのとき、ファリサイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに言った。「ここを立ち去ってください。ヘロデがあなたを殺そうとしています。」 32イエスは言われた。「行って、あの狐に、『今日も明日も、悪霊を追い出し、病気をいやし、三日目にすべてを終える』とわたしが言ったと伝えなさい。 33だが、わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえないからだ。 34エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。 35見よ、お前たちの家は見捨てられる。言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言う時が来るまで、決してわたしを見ることがない。」
3月5日から教会の暦は四旬節に入りました。これから4月20日のイースターに向けて、イエス様のご受難をおぼえる期節を過ごしてまいります。今日の聖書の物語は、イエス様がエルサレムへ向かって進まれる途中、ファリサイ派の人々と出会うところから始まります。この時イエス様は十字架の運命をたどるため、都エルサレムを目指して旅をしておられました。そこへファリサイ派と呼ばれるグループの人々が近寄って来てイエス様にこう言います。「ここを立ち去ってください。ヘロデがあなたを殺そうとしています。」
この場面は通常、領主であるヘロデがファリサイ派を使って自分の領土からイエス様を追い出そうとしていたものと解釈されます。ヘロデはファリサイ派を通じて殺害のおどしをかけています。そうしてイエス様をエルサレムに近づけまいとしていたのです。「ヘロデがあなたを殺そうとしています」と吹き込んでおけば、事を荒立てることなくイエス様を追い払うことができると考えたのでありましょう。
この時イエス様は究極の二択を迫られています。それでもエルサレムに進むか、あるいは「ヘロデが邪魔したからエルサレムに入れんかったわ~」と言って引き返すか、どちらかです。十字架に進むか、あるいは「そのつもりはあったんやけど、今回は状況的に無理やったわ~残念残念」と言って十字架をやめるか、その二択です。
このように、この世の現実は、二つの道をイエス様の前に備えています。一つはエルサレムに進んで十字架におかかりになる道、そしてもう一つは、言い訳をしてそれをやめる道です。私たちは言い訳が大好きです。何かと言い訳をして自分の道を進もうとしません。それは、言い訳をして宿題をサボるとか家事をサボるとかそういうこととは違います。それはみんなやっていますが、今はもっと深い部分での話です。人からこれをやれって言われた道ではない、神様と私が共に作って行く愛の道、その道を探し出して進まないための言い訳を私たちは一生分用意しています。忙しいから、周りに理解してもらえないから、自分に能力が足りないから…。私たちは「自分の道を進む」ということを常に避けているのです。
しかしイエス様は私たちとは違います。イエス様は常に自分の道を進まれます。イエス様は忙しいからといって神の子をやめたりしません。イエス様は周りから「死なないで」と引き止められたからといって十字架をやめたりしません。イエス様は、ご自分が一般人ヨセフの子だから、ガリラヤのド田舎で生まれたからといって、ご自分が永遠の王として人の上に立つ者であることをお忘れになったりしません。
だからイエス様はこう言われます。「今日も明日も、悪霊を追い出し、病気をいやし、三日目にすべてを終える」「わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない」イエス様にとってご自分の道とは、人々を癒し、悪魔の束縛から人々を解き放つこと、そして人々を十字架の死によって救うことでありました。
その自分の道は、誰に強制されたものでもありません。イエス様は親から大人になったら世界を救えと言って育てられたわけではないですよね。ご自分が神様と約束されたから、そうされたのです。生活のため世間体のためではなく、大いなる愛のために、神様とその契約を交わされたからです。イエス様にとって十字架とは、こなさなければならない義務ではありません。そうではなくてご自分の愛の最上級の表現でありました。
ですからイエス様にとっては、人にちょっと反対されたくらいで、ちょっと環境が悪いくらいで、その道をあきらめるなんてことはあり得ません。真実の愛はそんなものには屈しないからです。今日も明日も、その次の日も自分の道を進む。イエス様にとってそれは当然のことでした。
同じように、人は神様との約束のためなら、大いなる愛のためになら、迷わず自分の道を進み続けることができます。何言ってるかわからないのだとしたら、それはその感覚を忘れているだけです。神様は私たち一人ひとりに、「こうしなければならない」「こうするのが普通」という義務の道と同時に、神様と私たちが一緒に作る、オリジナルの愛の道を備えてくださっています。
私たちは社会生活を営んでいますので、義務の道から完全に逃れることはできません。し、それでよいのだと思います。義務の道をきっちりと歩むことは、それ自体尊いことです。しかしここは教会ですから、あえてその不完全さを指摘するなら、義務の道、「こうしなければならない」「こうするのが普通」という道は、こうしなくてもよくなったら、こうするのは普通じゃないってなったら、とたんにする気が起こらなくなってしまうということです。
例えば私たちは子どもの頃学校に行っていましたが、それっておおかた行かないといけないから行ってましたよね。それが義務じゃなくなったら、もう学校には行きません。学校には行かずに、他のもっと楽しいこと、もっと意味を感じられることに時間を使います。それは学校というのが私たちにとって「義務の場所」であったからです。
しかし中には、学校が本当に好きで行っていた人っているはずです。そういう人は大人になっても先生として学校で働いていたり、社会人になっても学びを続けたりしています。そういう方々にとっては学校というのは義務のために行く場所ではなくて、「愛を表現する場所」「自分を表現する場所」になっているはずです。生徒を思う愛を表現する場所、自分の知的好奇心を表現する場所になっているわけです。いま学校を例に挙げましたが、家庭も、仕事も、地域社会も、みんな同じです。それが義務の場所になるのか、愛の場所になるのかというのは人の内面によって変わってきます。
ですから、私たちにとって十字架が義務だと感じられるなら、人のために死ぬことが義務だと感じられるなら、あえて言いす、そんなことする必要はありません。愛じゃないなら意味がないからです。イエス様の十字架がどうして世界の人類を救えたか考えてみてください。イエス様が愛の動機でそれをしてくださったからですよね。人間は普通そんなことできないから、だから神の子イエス様が必要だったのです。イエス様がこの世に来られたのは、仕方なく十字架にかかる人が必要だったからじゃなくて、真実の愛のために十字架にかかる人が必要だったからです。
では、私たちが無理して十字架にかからなくていいなら、十字架はもう私のためにイエス様が終えてくださったと信じるなら、私たちは自分の命をどんな愛のために使うでしょうか。どんな愛の道を神様と作って行きたいでしょうか。義務からする、やらないといけないからやるので、はなくて、自分の愛をこの世に与えるためにやりたいことはなんでしょうか。この、神様の最高傑作である自分を世の中に表現するためにやりたいことはなんでしょうか。
私たちがイエス様の十字架を前にして受け取るべきメッセージは、自己犠牲や苦しみ、痛みだけではありません。むしろその奥にある、動機となる愛が重要なのです。同じように、私たちが「自分の道を進む」ということを考える時、目に見える行動に目を向けるのではなくて、その奥に愛があるかということを考えてみなければいけません。もちろんボランティア活動とか、どんな動機であれ善は善です。でもそれは相手を救っていたとしても本当に自分を救っていますかということです。
十字架は大事です、学校大事です、仕事大事です、家庭大事です、ボランティアも大事です。それは全然間違っていません。実際に世の中一般の人はそれらを一つひとつ仕上げていくことをゴールにして生きています。でも私たちはキリスト教徒です。キリスト教徒は、人は愛がなければ生きていけないということを知っています。いい年こいて真実の愛とか言ってバカにされても、それを求めて生きることを公にしています。「クリスチャンです」って言うと周りからは「あ、この人例の『愛の宗教』を信じてるんだ~変わってんな~」って思われてるわけですよ。でも、周りにどう思われようとも、愛が一番大事だって思うから教会に来ているわけじゃないですか。だから私たちは、私たちの一つ一つの選択と行動、その奥にある真実の愛こそが最も大事なもの、それこそが私たちを神の子として輝かせ、力の源であり続けているということを知っているのです。
私たちは十字架という処刑方法によって救われたのではありません。十字架のこの木が私たちを救ったのではありません。イエス様のほかにも十字架で死刑になった犯罪者は山ほどいます。でもその人たちは救い主ではありません。なぜか。私たちが救われたのは、イエス様が十字架という手段を通して、私たちに愛を表現してくださったからです。イエス様の十字架が、神の愛というのはこれほどまでに深く、無限で、私たちを救うまで絶対にあきらめないのだということを思い出させてくださったからです。
イエス様が十字架というご自分の道を進まれて、私たちに神の愛を表現してくださったように、私たちもそれぞれ自分の道を進んで、私たちの内にある神の愛を表現しましょう。何をするか、評価してもらえるか、どれくらいの規模でやるかということは全く問題ではありません。そこに愛があるか、それが大切だからです。私たちはこの四旬節の期間を、イエス様の受けられた苦しみと、その苦しみの奥にあるイエス様の深い愛を思いながら過ごしたいと思います。また来週もこの続きを聞いてまいりましょう。
「義務で十字架なんかやるな なんでもいいから愛を生きろ」
3月15日・16日 教会の祈り
司)祈りましょう。
全能の神様。社会福祉法人光の子会のために祈ります。光の子会の利用者のみなさん、職員のみなさん、そして組織を支えるルーテル教会を顧みて、祝福してください。光の子会の営みを通して、ますます主の栄光が証しされますように。
恵みの神様。東日本大震災から13年が経ちました。この震災によって命を失った方、行方不明となった方にあなたの救いのみ手が伸ばされていることを信じます。また、大きな被害を受け、心に深い喪失を抱え、復興への道を歩む方々にあなたからの希望が与えられますように祈ります。
主なる神様。四旬節の第二主日を迎えました。イエス・キリストのご受難をおぼえるこの期節を、祈りをもって過ごさせてください。聖書を通してイエス様のたどられた道をたどり、イエス様の深い愛と苦しみに気づかせてください。
私たちの主イエス・キリストによって祈ります。
会)アーメン
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