主の変容
2025年3月1日・2日 主の変容
福音書 ルカ9:28~36,(37-43a) (新123)
9: 28この話をしてから八日ほどたったとき、イエスは、ペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登られた。 29祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。 30見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである。 31二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。 32ペトロと仲間は、ひどく眠かったが、じっとこらえていると、栄光に輝くイエスと、そばに立っている二人の人が見えた。 33その二人がイエスから離れようとしたとき、ペトロがイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは、自分でも何を言っているのか、分からなかったのである。 34ペトロがこう言っていると、雲が現れて彼らを覆った。彼らが雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐れた。 35すると、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と言う声が雲の中から聞こえた。 36その声がしたとき、そこにはイエスだけがおられた。弟子たちは沈黙を守り、見たことを当時だれにも話さなかった。
7週にわたった顕現節も今日で終わりを迎え、来週からは四旬節が始まります。顕現節の最後の主日は、必ず主の変容の物語が読まれることになっています。主の変容は、主イエスの神の子としての栄光を証しするとともに、イエス様がこれから遂げられる十字架の死を暗示するエピソードです。今日はルカ福音書の9章を通して、この変容の出来事を読んでまいります。
9章の前半において弟子たちにご自身の死と復活を予告されたイエス様は、その八日後、祈るために山に登られます。この時は弟子たちのうちで最もイエス様から信頼されていたペトロ、ヨハネ、ヤコブだけがお供をしました。イエス様が祈っておられるうちに、イエス様の顔の様子が変わり、服が真っ白に輝き始めます。「変容」と呼ばれる出来事です。
イエス様の姿が変わるのと共に、弟子たちはイエス様がモーセとエリヤと共に語り合っているのを目にします。モーセとエリヤはそれぞれ律法(モーセ)と預言者(エリヤ)の象徴です。彼らの登場は、神様が律法と預言者を通して語られたことがイエス様に引き継がれるということを意味しています。つまり、イエス様こそが旧約聖書の約束を成就するために来られた方であることをあらわしているのです。
三人の会話の内容について31節には「二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。」と書かれています。イエス様は直前の9章22節で「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」と予告されました。それが何かの間違いではなく、必ず実現するということがここで確認されているのです。
三人は「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について」話していたとありますが、ここで「最期」と訳されている「エクソドス」というギリシア語は「死」と同時に「出発」を意味する言葉です。出エジプト記のこともギリシア語で「エクソドス」と言います(英語もそうです)。イエス様に待つのは確かに死でありますが、しかしそれは終わりではなく、出発です。イスラエルの民がエジプトを去って約束の地へ出発したように、十字架によってこの世を去られるイエス様は、神の国へと出発し、そこへ私たちを導こうとされています。
しかし弟子たちはそのことがわかりませんでした。彼らはモーセとエリヤ、そして栄光に輝くイエス様を見ましたが、イエス様がどうしてそのような姿でおられたのか、イエス様の「最期」とは何か、よくわからなかったのです。そこでペトロはイエス様に「仮小屋を三つ建てましょう。」と提案します。これはおそらく、夜の寒さを防ぐための小屋であったとも考えられますし、あるいは「祝い」「記念」の意味を込めての提案であったとも考えられます。
しかし「ペトロは、自分でも何を言っているのか、分からなかったのである。」とある通り、本当のところはペトロ本人にもよくわからなかったようです。イエス様の栄光を見て、イエス様の最期についての話を聞いた弟子たちは、だからといってどうすればいいのか分からず、思ってもないようなことをイエス様に提案したりしていました。
ペトロが混乱しながら話していると、雲が現れてその場を覆います。雲は神様がそこにおられることの象徴でした。神様は地上に来られるとき、雲でご自分の姿を隠されると信じられていたのです。神様は雲の中から弟子たちにこう語りかけます。「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」というものです。どうすればいいのかわからずに戸惑う弟子たちに神様は彼らがすべきことをちゃんと教えてくれます。
「これはわたしの子」というのはイエス様が神の子であって、神の世界に属する方であることを明らかにする言葉です。次の「選ばれた者」という言葉はイエス様がモーセやエリヤと同じように、神様から選ばれて、人々を導くために来られたのだという意味が込められています。最後の「これに聞け」は弟子たちへの呼びかけです。主の変容を前にどうすればいいのかわからなくなっている弟子たちに、ただイエス様に聞き従いなさいと語られています。
こうしてこの不思議な出来事は終わりを迎えましたが、弟子たちはここで見聞きしたことをしばらく誰にも洩らしませんでした。弟子たちは最後まで何が起こったのかよくわからず、何とも言いようがなかったのかもしれません。私たちだっていきなりイエス様が輝き出してモーセとエリヤが現れたら、しかも集まってイエス様が死ぬ話をし始めたら、驚いて何もできなくなってしまうと思います。
しかし神様が語られる、私たちがするべきことは「これに聞け」ということです。イエス様はこれからエルサレムで「最期」を迎えられます。つまり十字架の死に向かっていかれます。それは一見終わりのように見えますが、しかし本当は「エクソドス」「出発」であるのです。これからイエス様はこの世を去り、神の国に向けて出発されます。そして私たちを導いてイエス様のいるところ、父なる神様が備えてくださった神の国へと連れ出してくださいます。出エジプトでモーセがイスラエルの民を約束の地に至らせたように、イエス様は十字架を通して、私たちを神の国へと至らせてくださるのです。
イエス様の出発の時は迫っています。来週から四旬節が始まりますが、イエス様が十字架までにどのような道のりをたどられ、どのようにそれを耐え忍ばれたか、ご一緒に読んでまいりたいと思います。
3月1日・2日 教会の祈り
司)祈りましょう。
全能の神様。社会福祉法人光の子会のために祈ります。光の子会の利用者のみなさん、職員のみなさん、そして組織を支えるルーテル教会を顧みて、祝福してください。光の子会の営みを通して、ますます主の栄光が証しされますように。
主なる神様。明日/本日午後七時から東京教会で行われる「教職授任按手式」を顧みてください。この按手式をもって牧師となる大和(やまと)友子(ゆうこ)さんを祝福して、あなたの僕(しもべ)として用いてください。集われる関係者のみなさんにとって、明日/今日の按手式がすばらしい喜びの時となりますように祈ります。
恵みの神様。来週/今週の水曜日は灰の水曜日です。私たちはこの週から四旬節を迎えようとしています。イエス様のご受難をおぼえるこの期間、私たちを謙遜にして、祈りのうちに過ごさせてください。
私たちの主イエス・キリストによって祈ります。
会)アーメン
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