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聖霊の約束

2022年5月22日 復活節第六主日

ヨハネによる福音書14章23~29節


福音書  ヨハネ14:23~29 (新197)

14: 23イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。 24わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。

25わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。 26しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。 27わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。 28『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』と言ったのをあなたがたは聞いた。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。父はわたしよりも偉大な方だからである。 29事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく。


イースターから始まった復活節の日々も終わりに向かっています。今日が復活節の第六主日で、来週は復活のイエス様が地上を離れられたことを記念する主の召天の主日、そして再来週はいよいよペンテコステです。何度かお話ししている通り、復活節前半の3週は復活のイエス様が弟子たちの前に姿を現されたエピソードが読まれ、後半の3週はヨハネ福音書からイエス様の語録を振り返ることになっています。この後半3週の朗読を通して、私たちは、イエス様が地上を離れられる時のために心の準備をします。これはイエス様が前もっておっしゃっていたことを十字架の事実と共に振り返るということであり、そして同時に、イエス様が地上を離れられてもうろたえることがないように、残される私たちが何をすべきか、イエス様が言われていたことを思い起こすということです。


今日の聖書の箇所は、先週お読みしたところの少し後です。イエス様はエルサレムに迎えられ、弟子たちの足を洗った後、ユダの裏切りを予告されます。その後イエス様は14章~16章にわたって弟子たちに様々な教えをされ、この箇所はイエス様の「告別説教」と呼ばれています。今日の聖書の物語は、その告別説教の中で、イエス様が(イスカリオテでない方の)のユダの質問に答えて、「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。」と話し始められるところから始まります。


ここでは先週の聖書箇所に引き続き、イエス様の言葉を守る人は、イエス様が天に昇られた後もイエス様の弟子であり続けるということが約束されています。弟子たちとイエス様は(そして私たちとイエス様は)、イエス様の言葉を通してこれからもつながり続けるのです。また父と子との一体性というテーマに基づいて、イエス様の言葉を守る人のことを父なる神様も愛してくださるということが語られています。ヨハネ福音書の世界観において、父なる神様は旧約聖書の時代のように直接人と関わることはありません。父なる神様と人との交流は常に子なるキリストを通して行われます。ですからイエス様は私たちにとってなくてはならない、大変ありがたい存在であるのです。


続けてイエス様は「わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。」と言われます。イエス様の言葉を守るとは、「互いに愛し合いなさい」というイエス様の掟を守ることであり、またイエス様を信じることを意味します。イエス様は、「わたしの言葉」がそれほどまでに重要であると言われるその理由について、イエス様から出る言葉は同時に父なる神様の言葉であるからだということを言われています。イエス様の言葉は父なる神様から発せられた権威ある言葉であるというのです。


ここまでイエス様は父なる神様と子なるキリストが、復活と昇天のあとも人々と共におられるということを明らかにされました。さらに25節以降、イエス様は弟子たちに聖霊を遣わすことを約束されます。イエス様は「弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」と言われます。聖霊が弟子たちの弁護者(=助け主)として降ってくるということが予告されているのです。さらに聖霊は、イエス様が去った後、イエス様の教えを弟子たちに想起させる役割を負うということが明らかにされます。聖霊はイエス様を信じる者の助け主であるとともに、イエス様について教え、イエス様について思い出させる啓示者であるのです。


さらにイエス様は「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」と言われます。イエス様は別れのしるしとして「わたしの平和」を残していくと弟子たちに約束されているのです。イエス様からの平和は、単なるこの世的な平穏無事とは異なります。そうではなくて、神のみが与えることのできる、究極的、終末論的な平和です。同時にそれは、残された弟子たちがこの世的な平和を期待することができないということをも意味しています。ちょっと残念なお知らせです。


しかしながら、それでもやっぱり弟子たちはイエス様との別離を喜ばなければならないということが言われています。イエス様は彼らに「『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』と言ったのをあなたがたは聞いた。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。父はわたしよりも偉大な方だからである。」と教えられるのです。先週お話ししたように、ヨハネ福音書は十字架の栄光という側面を強調します。イエス様は栄光を受けるために十字架におかかりになり、救いの計画を完全なものにして弟子たちのもとへと戻って来られる…という世界観です。悲しい別離と悲惨な十字架の先には、イエス様の栄光と人々の救いという究極の喜びが待っています。だからその喜びのほうに注目していなさいとイエス様は弟子たちに教えられるのです。


このように、今日の聖書箇所において、イエス様はご自分との別れと聖霊の約束について語られました。イエス様はこのことをお話しになった理由として「事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく。」と言われています。「事が起こったとき」というのはすなわち十字架の死をさしています。十字架の恐怖と悲しみの中にあっても、弟子たちが信仰を保ち続けられるように、その先にある喜びを見失わないように、イエス様は前もってこのことを予告されたのです。


このことからもわかるように、十字架の死、受難、というのはイエス様にとって不意の出来事や悲惨な事故ではありません。それは父なる神様と共に完璧に計画され、前もって弟子たちに告げられた上で、御手のうちに行われる神秘の出来事、神様にしかなすことのできない偉大な御業です。十字架は恐怖と悲しみの事件であるのと同時に、神様の栄光の現れであり、神様の力が人間の前で最もはっきりと発揮されている救済史上の重要な場面であるのです。このことをイエス様は前もって言われ、これから待ち受ける十字架に備えて、弟子たちを勇気づけられました。


復活節も終わりに近づき、イエス様はいよいよ天に昇って行こうとされています。私たちはイエス様が前もって言われていたことをよく思い起こして、復活のイエス様とお別れをする準備をしなければなりません。復活の日、今までと変わらない姿で弟子たちの前にあらわれ、弟子たちと共に過ごしてくださったイエス様は、間もなく地上を離れて天に昇られます。しかしそれは永遠の別れではありません。弟子たちが(そして私たちが)信仰を持ち続ける限り、イエス様は弟子たちと(私たちと)共にいてくださいます。


十字架におかかりになる前、イエス様は弟子たちに数々の言葉を残してくださいました。イエス様は「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。」と言われ、「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。」と言われます。私が天に昇っても私の言ったことを思い出すんだよ、いろいろあるだろうけど最後にはすべて報われるから頑張るんだよ、ということを前もっておっしゃっているのです。


そうは言っても弟子たちは不安だったと思います。だってこれまではいつでも、困ったときはイエス様がそばにいて助けてくださったのですから。そんな弟子たちに対して、イエス様はさらに、ご自分が天に昇られた後、聖霊を遣わすという約束をされます。「弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」と言って、弟子たちを勇気づけてくださったのです。あなたはこれからも守られる、あなたはこれからも私を忘れない、だから大丈夫、という約束です。


このことはイエス様が天に昇られた後の時代を生きる私たちにとっても大きな慰めです。聖霊の働きによって、教会は2000年以上にわたって守られ、信仰が継承されてきました。聖霊の働きはイエス様について教え、イエス様について思い出させることであると言われています。聖霊が働いているからこそ、私たちはこんなに時間を隔てていても、この一冊の聖書から、イエス様の姿をありありと思い浮かべ、イエス様の言葉を生き生きと、自分に向けて語られた言葉として聞くことができると、キリスト教会は考えているのです。聖霊は私たちの間を満たし、私たちが信仰を持ち続けられるように、今も働いてくださっています。この日、イエス様が弟子たちに遺された言葉を改めて聞き、ペンテコステの日、聖霊が降るのを待ち望みたいと思います。

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