絶えず祈りなさい
福音書 ルカ18: 1~ 8 (新143)
18: 1イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。 2「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。 3ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。 4裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。 5しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。』」 6それから、主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。 7まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。 8言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」
引き続きルカ福音書を読んでいきます。イエス様はサマリアとガリラヤの間で重い皮膚病の人々を癒された後、ファリサイ派の人々に対して神の国について教えられます。その後に配置されているのが今日の「やもめと裁判官のたとえ」です。弟子たちに対して語られたこのたとえはルカ福音書にのみ収められているエピソードです。
イエス様は「気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために」弟子たちにこのたとえを話されたと聖書には記されています。祈りが聞かれなくて気落ちする、失望する、ということは、古来人が持ち続けてきた悩みでありました。イエス様はこのたとえを「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。」と言って話し始められます。当時の裁判は長老の評議会によって運営されていて、裁判官の主な役割は財産争いを仲裁することでした。
続いて登場するのが「一人のやもめ」です。やもめとは夫を亡くした女性のことで、旧約聖書の時代から孤児、寄留者と共に社会的弱者とみなされ、特別な保護を必要とするとされた存在でした。彼女は裁判官のところに来ては、「相手を裁いて、わたしを守ってください」と言っていたとあります。やもめが何について相手と争っていたのかははっきり書かれていませんが、裁判所の主な役割が財産争いの仲裁であったことを考えると、最も可能性が高いのは金銭に関する争いでしょう。彼女が自ら裁判官のもとにやって来るという状況は、彼女を守り助けてくれる男性が周りにいないということを意味しています。(通常、裁判所は男性が行く場所でありましたし、男性が交渉したほうが正当に扱ってもらえるぶん、物事がうまくいきました。)
裁判官は、先に紹介された通り正義感も何もない人物なので、はじめ彼女のことを無視していました。しかし彼は次第にこう思い始めます。「自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。」やもめがしつこくてやかましいから裁判をしてやろうと裁判官は決意するのです。新共同訳で「さんざんな目に遭わす」と訳されている部分は、直訳すると「私の目を黒くする」という意味になります。つまり、裁判官はやもめに(目の周りに黒くあざができるほど)顔を殴られるのではないかと恐れたのです。
ここでイエス様はこのたとえ話を解説して、「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。」と言われます。道徳心のかけらもないような裁判官でさえ、しつこく頼めば応えてくれるのに、慈しみ深く公正であられる神がご自分の民のことをいつまでも放っておかれることはあり得ないとイエス様は教えられるのです。これが今回のたとえ話の結論です。
この「やもめと裁判官のたとえ」は少し前に読んだ「不正な管理人のたとえ」と似ています。「不正な管理人のたとえ」においてイエス様は、ずる賢い管理人の抜け目のなさ、一事に忠実な姿勢をほめたのでした。同じように今日のお話に出てきたやもめも、裁判官のところに日参し、うるさく騒ぎ立て、裁判官を殴りかねないほどの熱心さで公正な裁判を求めます。そして、そんな彼女と同じくらい熱心に祈るということが私たちに求められているのです。
イエス様は絶えず祈りなさいと私たちに言われます。しかし同時に気を付けておきたいのは、私たちがまず祈るべきは「神様の御心が行われること」(つまり神様のご計画が神様の意図した通りに行われること)であるということです。イエス様が私たちに「祈るときには、こう言いなさい」と言って教えられた「主の祈り」は「み名があがめられますように」「み国が来ますように」という言葉で始まります。私たちが第一に祈るべきなのは、神様のことであって、自分のことではないのです。
もちろん私たちは自分の願望を祈ることを許されています。しかし自分の願望よりも神様の御心が優先されるということをどこかで感じてもいるでしょう。キリスト教は「神様は私たちが望むものを望む通りにすべて与えてくださる」と考えている宗教ではありません。そうではなくて「神様は私たちが望むものを与えてくださるとは限らないけれども、(神様から見て)最高のものを与えてくださる」というのが、キリスト教信仰の実際のところに近いように思います。
例えば、私たちは死にませんようにと祈っても死にますし、年を取りませんようにと祈っても年を取ります。それはなぜかというと、死なないことや老いないことが神様の御心、つまり神様の意図するところではないからです。神様が人間の体をいずれ塵になるもの、有限なもの、不完全なもの、と定められた以上、どんなに熱心に祈ったとしても、それを変更するということはできません。
この祈りにおける葛藤をイエス様も知らなかったわけではありません。この地上に肉体を持ってお生まれになったイエス様はそのことを身をもってご存じでした。イエス様は祈りが地上的な願望の満足に直結しないことを知っておられます。祈ったところで望むものが望む通りに与えられるわけではないということを知っておられます。それでもイエス様が絶えず祈りなさいと言われるのは、祈りによって神様の御心が人の心にいきわたるからです。祈りによって人の心が神様につながって、神の国の到来が早まるからです。
イエス様は熱心に祈りなさいと私たちに教えられます。それにはもちろん自分の願望について熱心に祈ることも含まれていますけれども、それ以上に、神様の御心がこの地上でますます行われるように(言い換えれば、神様の影響力がこの現実世界においてますます大きくなるように)熱心に祈るということが求められているのです。祈りが聞かれない、望んだとおりのことが起こらない、ということは古来人が持ち続けてきた悩みでありました。しかしイエス様が「祈れ」とおっしゃる時、イエス様は何についてまず祈れと教えられたかということを思い出してみましょう。まずは神様のみ名があがめられること、神様のみ国が来ること、そしてその次に私たちの思いや願いを、これからも祈り続けてまいりたいと思います。
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