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終末のしるし

2024年11月16日・17日 聖霊降臨後第二十六主日

マルコによる福音書13章1~8節 「終末のしるし」

 

福音書  マルコ13: 1~ 8 (新88)

13:1イエスが神殿の境内を出て行かれるとき、弟子の一人が言った。「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」 2イエスは言われた。「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」

3イエスがオリーブ山で神殿の方を向いて座っておられると、ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかに尋ねた。 4「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか。」 5イエスは話し始められた。「人に惑わされないように気をつけなさい。 6わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。 7戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても、慌ててはいけない。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。 8民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる。これらは産みの苦しみの始まりである。


宗教改革主日、全聖徒主日が終わり、教会の暦も終わりに近づいてきました。来週が聖霊降臨後最終主日、そして再来週はもうアドベントです。毎年教会暦の終わりには終末に関する聖書箇所が読まれることになっています。教会の一年の終わりを、この世の終わりと関連付けているわけです。キリスト教では、私たちが生きているこの時は再びイエス様がこの世に来られるまでのいわば中間時であると考えています。今あるものはいつか滅びて、私たちにとっての「終わりの時」、神様にとっての「完成の時」が訪れます。


今日の聖書の物語はイエス様がエルサレム神殿を出て行かれるところから始まります。しばらくの間エルサレム神殿の境内で教えておられたイエス様はそこを去っていよいよ十字架に向かわれるのでした。神殿を去る時、弟子たちの一人がこんな風に言います。「先生、ご覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」当時のエルサレム神殿はそれはそれは美しい建物であったと言われています。大きな石で造られ、表面を大理石と金で飾られた巨大な神殿は、昼の間日の光を反射してきらきらと輝いていました。そんな建物ガリラヤの田舎にはありませんから、弟子たちはその光景に素朴に感銘を受けたのでありましょう。


しかしイエス様は答えて「一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」と言われます。つまり、この神殿はやがて徹底的に破壊されると言われるのです。実際にエルサレム神殿はこれまでに何度か破壊されてきました(アッシリア捕囚の時、バビロン捕囚の時)。それと同じようなことがこれからまた起こると言われるのです。そして神殿が破壊されるということは、ユダヤ社会が崩壊するということを意味しています。神殿は人々の心の拠り所であり、経済の中心であり、教育の中枢であったからです。あなたがたが多くのものを失う時が来る、とイエス様は弟子たちに予告しておられます。


これを聞いて弟子たちは非常に恐れました。次の場面では、弟子たちのうちペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレがイエス様に対してひそかにこう尋ねます。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか。」そのことというのはつまり、神殿の破壊、社会の崩壊のことです。それがいつ起こるのか、何がその前兆となるのか、教えてくださいと彼らはイエス様に尋ねました。イエス様の口からあんな預言を聞いた以上、詳しいことが気になって仕方がなかったのです。それに対するイエス様の答えは「惑わされてはならない」「慌ててはいけない」でありました。


イエス様は神殿が崩壊する時「わたしの名を名乗るものが大勢現れる」「戦争と戦争のうわさ、あらゆる敵対が起こる」「地震と飢饉が起こる」と言われます。世の中が不安定になって、救い主を自称する者が現れたり、戦争が起こったり、天災が起こったりするというのです。しかしそれに惑わされてはならない、つまり焦って何か特別なことをしてはならない、特別な何かを信じようとしてはならない、というのがイエス様の教えです。世の中がどんな状態であろうとも、変わらない神様の教えを変わらずに信じることが結局は一番良い、それが神様が求めておられることである、とイエス様は言われています。


弟子たちがそこまで終末のしるしを恐れたのは、聖書の時代の人々が今よりももっと自然現象や世の中の動きに敏感だったからでもありました。新聞もインターネットもない時代です。自分と先祖の歴史だけが人々にとっての「世界」でありました。そんな中で、地震や戦争という珍しい出来事が起こると、人々はそれを特別な徴(何かの前兆)として自然と受け止めていたのです。


しかし今の私たちはいわゆるグローバル化社会、情報社会に住んでいますので、今日イエス様がおっしゃるような「徴」が日常的に世界のどこかで起こっていることを知っています。自称キリストみたいな人は世の中にごまんと存在することを知っていますし、戦争が世界中で、それこそイエス様が歩かれた地でも起こっていることを知っています。日本では毎年数えきれないほど地震が起こりますし、世界中天災や飢饉に悩む人だらけであることも知っています。これらのことはもちろん無視していいことではありませんが、しかし世界中で起こるそういった出来事にいちいち反応して世界の終わりを感じていたら、毎日世界が滅亡していないといけないことになります。これでは私たちは落ち着いて日常生活を送ることができません。そういう意味でイエス様がおっしゃったことはやっぱり正しいわけです。


イエス様はこのようにも言われます。「そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない」「これらは産みの苦しみの始まりである」。これらのことは神様が必要に応じて私たちに与えられるものであって、私たちの信仰を破壊するために起こっていることではないとイエス様は教えておられるのです。


だからイエス様は「人に惑わされてはならない」と言われます。不安なことが起こった時、「神ではなくて私を信じなさい」と言って惑わす人が現れ、「これが新しい神の教えだ」と言って惑わす人が現れるけれども、それは本当のことではないから、惑わされてはならないというのです。人間は惑わされやすい生き物です。私たちには神様のご計画が結局のところよくわからないので、何か変わったことが起こると、すぐに不安になってしまいます。しかし神様は人間の目に混乱と映るような時でも、私たちのためにご自分のするべきことをただなさっているのです。


この世の終わりは神秘であって、神様のご計画のうちに隠されています。私たちはそれがいつ来るのかを知ることができませんし、その徴についてもはっきりとしたことは知らされていません。それは私たちが知る必要がないことだからです。イエス様は「いつ」「どんな風に」終末が起こるかという弟子たちの問いに対して、はっきりとお答えになることはなさいませんでした。その代わりにイエス様が弟子たちに教えられたたった一つのことは「惑わされてはならない」ということでした。


アブラハムの時代から、世の中というのは不安定なもの、自然というのは恐ろしいものです。しかし何かが起こるたびに惑わされて神様の御心を疑ったり、焦って新しいものを信じたりする必要はありません。そうすることは結局のところ私たちを幸せにしないからです。私たちは聖書で語られている神様の教えを保ち続けていればそれでよいとイエス様はおっしゃっておられます。この一週間もみなさまに平安が与えられますようにお祈りします。


 

11月16日・17日 教会の祈り

 

司)祈りましょう。

 

全能の神様。イエス様は私たちが生きる時には苦難があると語られ、その先にある喜びを示されました。私たちが苦難にあってあなたを求め、自分の力ではなく、神様の力を信頼することができますように。どんな時もあなたが共にいてください。

 

恵みの神様。日に日に寒さが増してきました。本格的な冬に向かうこの季節にあって、私たちの体調をお守りください。特に、入院中の方、病気療養中の方、お一人暮らしの方が無事に過ごされますようにお祈りします。

 

慈しみの神様。日本に暮らす私たちは七五三の季節を過ごしています。子どもたちがあなたによって守られ、健やかに成長することができますように。子育てに励んでおられるご家族やその周囲のみなさんのことも、あなたがどうぞお守りください。

 

私たちの主イエス・キリストによって祈ります。

会)アーメン

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