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終わりの時

2022年11月13日 聖霊降臨後第二十三主日

ルカによる福音書21章5~19節


福音書  ルカ21: 5~19 (新151)

21: 5ある人たちが、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話していると、イエスは言われた。 6「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。」

7そこで、彼らはイエスに尋ねた。「先生、では、そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが起こるときには、どんな徴があるのですか。」 8イエスは言われた。「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』とか、『時が近づいた』とか言うが、ついて行ってはならない。 9戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである。」 10そして更に、言われた。「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。 11そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。 12しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。 13それはあなたがたにとって証しをする機会となる。 14だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。 15どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである。 16あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる。 17また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。 18しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。 19忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」


宗教改革主日、全聖徒主日が終わり、教会の暦も終わりに近づいてきました。来週が聖霊降臨後最終主日、そして再来週はもうアドベントです。毎年教会暦の終わりには終末に関する聖書箇所が読まれることになっています。教会の一年の終わりを、この世の終わりと関連付けているわけです。キリスト教では、私たちが生きているこの時は再びイエス様がこの世に来られるまでのいわば中間時であると考えています。今あるものはいつか滅びて、私たちにとっての「終わりの時」、神様にとっての「完成の時」が訪れます。


  今日の聖書の箇所でイエス様は、恐ろしい預言をされています。戦争、暴動、天変地異、迫害などが起こって、イエス様を信じる人たちがそれに巻き込まれるという預言です。事実、イエス様がこの預言をされたすぐ後に戦争とエルサレム神殿の崩壊が起こりました。ルカ福音書の時代の人たちは実際にそういう経験のただ中にいたのです。


  戦争とか地震とか、そんなことを言われると私たちはとても怖くなってしまいますが、言っているイエス様はどこか平然としています。そして「惑わされるな」「ふさわしい言葉と知恵を私があなたがたに授ける」「あなたがたの髪の毛一本も決してなくならない」と言われるのです。イエス様の預言される恐ろしい終わりは、その先にある希望と結びついています。イエス様が語ろうとされているのは終わりの先にある喜びや希望であって、終わりの恐ろしさや絶望感ではないのです。


  私たちの生活に引き比べてみると、命の終わりである死に対しても同じことが言えると思います。ルターは『死への準備についての説教』という説教のなかで、「死から命に至る道は狭いけれども長くはない」と言っています。つまり、死は怖いけれども、ほんの少しの恐怖の先に永遠の喜びが待っているのだから大丈夫、と言っているわけです。彼はまた「死に臨んだ時に、不安を払いのけて、死後になお大きな世界と喜びとが存在することを知っていなければならない」と語っています。ルターは私たちの心の中にある死への不安を否定しません。しかし牧師として、また信仰者として、その先にある喜びを信じましょうと呼びかけているのです。


  (ちなみにこの説教は「死はこの世と、この世のすべての営みからの別離であるから、人は自分のこの世の財産を然るべく適宜に整理し、あるいは死後遺族近親の間に、けんか論争、その他いざこざのたねが残らないように整えておくようにすることが必要である」という言葉から始まります。ルターはなかなか現実的です。)


  私たちの命にも、この世界にも、やがて終わりは訪れます。それは人間の目から見れば破壊のように思われますが、神様から見ればそれは完成です。終わりの時は、一時の悲しみを通って永遠の喜びに至るプロセスであるのです。私たちは自分の命と、そしてこの地上の世界にある意味でしがみついて生きていますが、それらは最初から神様の定めの中に存在しているものであって、私たちが創造したものではありません。私たちはただ神様の御手の中で神様のご計画に従って生かされているのです。


  私たちは生きている限り、様々な不安や恐れから完全に自由になることはできません。戦争、疫病、天災、イエス様がここで預言されているようなことが起こったらどうしようとニュースを見て不安に思います。そしてルターが言うように、たとえイエス様を信じていても、やっぱり死というのは怖いもの、不安なものです。でもそういうありとあらゆる不安に対してイエス様はそれに惑わされてはならないと言われます。何があっても、神様が私たちを導いてくださるからです。


  もちろん不安に対して備えるのはよいことです。地震に備えて家具を固定したり、あるいはルターの言うように先々に備えて財産を整理しておいたりすることは必要なことでしょう。しかしその上で、最終的には、何があっても神様が私たちを良きようにしてくださる、人間が前もって色々心配しなくても大丈夫、というのがイエス様のおっしゃる「終わり」の世界です。終わりは神様のご計画の中にあるものだからです。


ルターは同じ説教の中で「死や陰府についてあまり前もって深く考えすぎてはいけない、そうすると悪魔が働いてどんどん怖くなるように仕向けるから。だからむしろ神様のもとでの永遠の命に目を向けるようにしていなさい。」という趣旨のことを言っています。あなたの不安な気持ちは否定しないけど、でも自分の不安でいっぱいになるのではなくて神様に目を向けることができたらいいですねという現実的なアドバイスだと思います。


  私たちの頭の中も不安でいっぱいになることがあります。でも不安でいっぱいになっている状態は、神様のことを忘れている状態です。自分の考え、自分の想像、自分の感情でいっぱいになっています。そんな私たちにルターは、神様に目を向けなさいと語ります。神様があなたをどんなに大切に守っておられるか、あなたが救われるためにどんなに手を尽くしてくださったか、それを思い出しなさいというのです。これは私たちが終わりの恐怖に向き合うにあたって本当に大切なことです。神様がすべてを良きようにしてくださるということを信じて、神様にこの身をゆだねて、一年の締めくくりを迎えたいと思います。


(参考文献)

マルティン・ルター著、福山四郎・江口再起訳、ルター研究所編「死への準備についての説教」『ルター著作選集』教文館、2005年

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