神のものとして世を生きる
2023年10月22日 聖霊降臨後第二十一主日
マタイによる福音書22章15~22節
福音書 マタイ 22:15~22 (新43)
15それから、ファリサイ派の人々は出て行って、どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠にかけようかと相談した。 16そして、その弟子たちをヘロデ派の人々と一緒にイエスのところに遣わして尋ねさせた。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです。 17ところで、どうお思いでしょうか、お教えください。皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」 18イエスは彼らの悪意に気づいて言われた。「偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか。 19税金に納めるお金を見せなさい。」彼らがデナリオン銀貨を持って来ると、 20イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。 21彼らは、「皇帝のものです」と言った。すると、イエスは言われた。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」 22彼らはこれを聞いて驚き、イエスをその場に残して立ち去った。
引き続きマタイ福音書を読んでまいります。エルサレムに入られたイエス様は、そこで論争に次ぐ論争を経験されます。初めの論争は祭司長と長老たちを相手とするものでした。イエス様はここで「二人の息子のたとえ」「ぶどう園と農夫のたとえ」「婚宴のたとえ」の三つのたとえを語られました。ここまでが、私たちが先週まで読んできたところです。続いて登場する論敵はファリサイ派の人々です。彼らはヘロデ派と結託して、皇帝への税金を話題にしてイエス様を罠にかけようとします。それがお今日のお話です。
今日の聖書の物語は、ファリサイ派の人々が「どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠にかけようかと相談」するところから始まります。イエス様がご自分に敵対する人たちに悔い改めを呼びかけていた一方で、彼らの中ではイエス様を捕えて十字架につける計画が着々と進行していました。そうしてファリサイ派の人々は自分の弟子たちをヘロデ派の人々と一緒にイエス様ののもとに遣わします。ファリサイ派とヘロデ派は、もともとは相容れないグループでしたが、ここでイエス様を陥れるために手を組みました。
彼らはやって来るとイエス様のことを「先生」と呼び「わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです。」と丁重にあいさつします。しかし18節の記述を見ると、イエス様はこれが偽善であることを見抜いておられたことがわかります。彼らは本心ではイエス様を尊敬していませんでした。そうしてファリサイ派とヘロデ派の人々は、用意しておいた質問をイエス様にぶつけます。それは「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」というものでした。
この質問の背景を少しご説明したいと思います。当時のユダヤ地方はローマ帝国によって間接的に統治されていました。ローマ皇帝によって任命された総督がユダヤを治めるという仕組みです。ローマ皇帝に納める税金は、ユダヤ総督の管理下で集められ、中央に送られます。ここで言われている税金は人頭税にあたるもので、14歳以上のすべての男性と12歳以上のすべての女性に毎年課されたものでした。
その人頭税の納入にあたって鋳造された貨幣がデナリオン銀貨です。そこには当時のローマ皇帝ティベリウスの横顔と「皇帝ティベリウス・神聖なるアウグストゥスの子」という銘文が刻まれていました。(銘文は一例で実際には色々なパターンがあります。)ちなみにアウグストゥスは初代ローマ皇帝、その養子であったティベリウスは第二代ローマ皇帝で、14年から37年まで在位した人物です。
これらのことはイスラエルの人々にとって悩みの種でした。ローマ帝国によって征服された側であるイスラエルの人々の多くは、そもそもローマ帝国に対する反感を持っていました。そんなローマに税金を納めなければならない上に、納税に用いる銀貨には「神聖なる皇帝」と第一戒に反するような語句が刻まれているということで、この銀貨を用いて税金を納めることは愛国的ユダヤ人にとって大変な屈辱であったと言われています。実際に、熱心党と呼ばれるグループの人たちは、この貨幣に触れることさえも罪であるとしていたほどです。
今日のお話では、ファリサイ派の弟子たちがヘロデ派を引き連れてイエス様のもとに現れます。彼らの立場を説明すると、ファリサイ派は反納税派です。律法を厳格に守ろうとしていた愛国心の強い人たちでしたから、ローマ帝国に納税することにも、デナリオン銀貨を使うことにも、反対でした。そして多くの民衆は心情的にファリサイ派を支持していました。一方でヘロデ派の人々は親ローマのグループでした。ヘロデ派の人々というのはかつてローマによって立てられたヘロデ王家を支持する人たちでしたから、当然ローマ帝国への納税にも積極的でした。
このように普段まったく主義主張が異なる二つのグループがわざわざ一緒に訪ねてきたのは、結託してイエス様を罠にかけるためでした。彼らの質問は「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」というものです。これはイエス様がどのようにお答えになっても逮捕されかねない、逃げ場のない危険な質問でありました。
この質問に対してイエス様が「適っている」と答えれば神を冒涜としたとしてファリサイ派に捕えられます。さらに民衆の失望を買い、ユダヤ民族に対する裏切り者というレッテルを張られたでしょう。しかし「適っていない」と答えれば、ローマの法律を守らない違反者としてヘロデ派に捕えられます。政治的反逆者として裁判にかけられるかもしれません。肯定も否定もできない、難しい質問でした。
しかしイエス様は彼らの悪意を知って「偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか。」とお答えになります。申命記6:16に「あなたたちの神、主を試してはならない。」とある通り、神はご自分を試そうとする人間と良い関係を結ぼうとはされないのです。そこでイエス様は彼らにデナリオン銀貨を持って来させ「これはだれの肖像と銘か」と言われます。彼らが「皇帝のものです」と答えると「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と言われました。
その答えに驚いたファリサイ派とヘロデ派の人々は、イエス様をその場に残して立ち去ったとあります。イエス様が彼らの悪意と偽善を見抜き、想像を上回る賢いお答えをされたことに驚いたのです。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」というイエス様の言葉は「ここでイエス様は政治と宗教の分離について語られている」と解釈されることもありますが、実際のところイエス様がどの程度それを意図されていたのかは、この短い記述だけではよくわからないと言った方がよいでしょう。
しかし一つ言えるのは、イエス様は悪意を持って近づく人に、決して取り合ってはくださらないということです。今日の物語で、イエス様はファリサイ派とヘロデ派の問いに正面からお答えになりません。あえて否定も肯定もなさいません。ひとつ前の祭司長と長老たちとの論争においても同様です。「何の権威でこのようなことをするのか」という彼らの問いを、イエス様は上手にかわされました。イエス様は、ご自分を陥れるためになされた悪意のある質問には決してお答えにならないのです。ファリサイ派の人たちがヘロデ派と結託してとっておきの難しい質問を用意したとしても、それは意味のないことなのです。
今日の福音書の物語は、偽善や悪意が私たちをイエス様との対話から遠ざけるということを教えています。私たちが偽善を語る時、悪意を持って近づく時、イエス様を思い通りに誘導しようとする時、イエス様は私たちにお答えになることはありません。イエス様は人の心を見抜かれるお方であるからす。どんなに口先でイエス様をほめて、どんなに逃げ道のない質問を用意しても、それはイエス様の前では全く意味のないことです。
そうではなくて、イエス様との対話に必要なのは、嘘のない心と、イエス様のおっしゃることを素直に受け入れる気持ちです。イエス様は敵の悪意をもった質問にはお答えになりませんでしたが、群衆の願いに応じて、そして弟子たちの疑問に答えて、真剣にお話しをしてくださいました。それは群衆や弟子たちが心からイエス様のみ言葉を求めていたからです。悪意や偽善が取り除かれてイエス様と出会う時、はじめてイエス様は本当のことを語ってくださるのです。そのことを胸に刻んで、これからも聖書の言葉に耳を傾けてまいりましょう。
10月22日 教会の祈り
全能の神様。私たちの暮らす日本では、様々な事件をきっかけに、宗教への不信感が高まることがあります。宗教による搾取や不正をあなたが戒め、信じる者の群れを健やかに保ってください。信仰を持つ人々が生きづらい社会にあっても、私たちの信仰をお守りください。
恵みの神様。社会福祉法人光の子会のために祈ります。光の子会の利用者のみなさん、職員のみなさん、そして組織を支えるルーテル教会を顧みて、祝福してください。今週行われる「ひかり祭り」の準備をあなたがお守りください。
慈しみの神様。朝晩の冷え込みが厳しくなってまいりました。季節の変わり目にあって私たちの体調をお守りください。2023年の残りの日々を、あなたと共に、聖書と祈りに親しみながら送ることができますように。
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