真理と自由
2021年10月31日 宗教改革主日
ヨハネによる福音書8章31~36節
福音書 ヨハネ 8:31~36 (新182)
8:31イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。 32あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」 33すると、彼らは言った。「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」 34イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。 35奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。 36だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。
今日は宗教改革主日の礼拝です。504年前のこの日、アウグスティヌス会の修道士であったマルティン・ルターが「95か条の提題」をヴィッテンベルク城教会の扉に打ち付けました。それに端を発した一連の教会刷新運動が、のちに「宗教改革」と呼ばれるようになる出来事です。宗教改革が起こった背景については昨年の宗教改革主日にだいぶくどくどとお話ししましたので今年は控えますが、とにかく、人の行為による救いではなく、神の恵みによる救い。このことを訴えたのがマルティン・ルターであり、その信仰の上に建てられた教会が、いま私たちの集っているルター派教会(ルーテル教会)です。
先ほどお読みしたヨハネ福音書8章では、イエス様がご自分を信じた人たちに「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」と語られています。真理と自由、どちらも宗教改革にかかわりの深い言葉です。私はルーテルアワーというウェブサイトで「ルターさんに聞いてみよう・キリスト教Q&Aというコーナーを担当しています。厚かましくもルターになり切って皆さんからの質問に答えるということをやっているわけですが、ルターだったらどう言うかなと考えたときに、やはり真理とか自由といったことは重要なポイントになっていると思います。
例えば大掃除が面倒くさいですという質問には暖かくなってからやればいいと答え、友達を作りたいという質問にはとりあえずあいさつでもしてみて、あとは無理しなくていいと答えたりしています。すみませんみなさんが想像していたよりもだいぶキリスト教と関係のないQ&Aだと思うのですが、ともかく私のイメージの中で、ルターという人は悩んでいる人に対して「これをしなければならない」「これをしてはならない」ということをあまり言わない人なんじゃないかと想像しているわけです。
ルターの生涯を振り返った時、彼は「これをしなければならない」「これをしてはならない」に人一倍縛られていた人物であったと言うことができます。すみませんさっきの大掃除とかお友達作りの話はいったん忘れていただいて、もっと宗教的に、そういった規則や戒律といったことに非常にまじめに取り組んだ人でありました。ルターはもともと法律家志望でありましたが、雷雨に遭って死ぬ思いをした体験をきっかけに一転して修道士になります。修道院には「これをしなければならない」「これをしてはならない」という様々な規則がありますが、ルターは徹底的にこれを守ることで神様と向き合いました。
修道院では一日に七回のお祈りがあります。定時の祈りを守ることは救いへの道であると考えられ、これらを欠かすことは深刻な罪であると教えられていました。ルターは大学で教えていましたので、やむを得ず定時の祈りを欠席することが多くありました。そういう時は一人で自由時間に祈ればよいということになっていましたが、ルターはお祈りを欠席したことが怖くなり、自由時間を待たず深夜に目覚めて埋め合わせの祈りを行ったと後年語っています。万事この調子で真面目に修道生活に取り組みました。
他にも「しなければならない」ことはたくさんあります。一日一回の聖餐式、毎週の断食、告解(罪の告白)も週に一度はするようにと義務付けられていました。ルターが週に一度でよいと言われていた告解を何度も行っていたのは有名な話です。ある時などは6時間にわたって犯した罪を告白したとまで語っています。「してはならない」こともたくさんあります。贅沢は禁止です。ルターは薄着と粗食を貫き、寒い冬のドイツで凍えながら深夜の祈りを行いました。決められた時間以外は会話も禁止、異性と接触するのは絶対禁止。たくさんの決まりごとを信仰のために守っていたのです。
ルターは初め、このような生活を送ることで心の平安を感じていました。修道院に入るという決断をして、入った後もこれだけやっているのだから、自分は確実に救われるだろうと素直に思っていたのです。神様はこんなに頑張っている自分を裁いて地獄に送ったりはしないだろうと自然に思えていました。しかしルターは次第には自分の救いに確信が持てなくなっていきます。修道院での厳しい生活はルターに徹底的な自省を促しました。修道生活を送れば送るほど、かえってルターは自分の罪深さや、自分の行いの不完全さを思い知ります。生真面目なルターがどれほど頻繁に告解を行っても、彼の中では神の裁きへの恐れが頭をもたげてくるのでした。
そうして悩み深い日々を送っていたルターは、ある日一つの聖書の言葉に目を留めます。それは詩編71編の「あなたの義によって私を救い出してください」という言葉でした。ルターは初めこの言葉が理解できなかったと言います。「義」というのはつまり、正しさのことです。ルターにとって神の義とは、裁きそのものでありました。神は正しいお方であるので、人間にも同じように正しさを求める。人間は神に見合う正しい者となるために努力をしなければならず、正しくない者は裁きを受ける。それがルターの思う義であったのです。ですから、ルターにとって義がもたらすのは救いではなく裁きでありました。そう信じるからこそ、正しい人になって神様に認められることで裁きを免れようと頑張っていたのです。
しかし聖書が語っているのは全く逆の言葉です。神の義が、私たちを裁くのではなく私たちを救うと語っているのです。とうとうルターはあることに気付きます。神の義とは、神様の「恵み」であって、それは神様からのプレゼントとして人間に与えられるものなのではないか。神様はご自分の正しさを、正しくない私たちに贈ってくださっているのではないか。そして神様がイエス様を送ってくださったということが、その何よりの証明なのではないか。こうやってルターは「信仰義認」と呼ばれる神学に至ります。人は自らの行為によって救われるのではなく、神の恵みによって救われるという真理です。
こうしてルターは神の裁きを恐れることから解放されて、信仰上の自由を手にしました。そして、神の裁きではなく、神の恵みを宣べ伝える説教者となりました。ルターの同時代の人々は、程度の差こそあるにせよ、修道士時代のルターと同じような信仰に生きていました。救われるためには、たくさん献金して、たくさんよい行いを積んで、神様に認めていただかなければならない。そうでなければ神様は私たちを裁き、死んだら地獄や煉獄に連れて行かれるだろう。当然のようにそう信じていた人々に、ルターは神の恵みを説いたのです。その教えに共鳴する人が次々にあらわれ、ルターの信仰上の発見はやがて大きな時代のうねりとなっていきました。神の恵みによって救われるという真理が、人々を自由にしたのです。
神様は義なる方、正しいお方です。しかしそれは、私たちに同様の正しさを求め、欠けているところがあれば裁くための正しさではありません。そうではなくて、神様はその義をもって私たちを救ってくださいます。どうやっても正しく生きられない私たちに、正しい方であるイエス様を贈り、これによって私たちに救いをプレゼントしてくださいました。まるで衣を着せかけるように、神様はご自分の正しさで私たちを覆ってくださっています。私たちの力ではなく神様の力によって救いが成就されているのです。
ですから私たちは自分が救われているかどうかという恐れに取りつかれる必要はありません。自分の救いを獲得することにお金と時間を費やす必要もありません。救いは今、ここにあります。救いは、神様を信じイエス様を慕う私たちにすでに贈られているのです。宗教改革主日のこの日に、マルティン・ルターの生涯と信仰を思い起こし、救われた者として、喜びと感謝のうちに信仰生活を送ってまいりましょう。
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