真の神殿であるキリスト
2024年3月3日 四旬節第3主日
ヨハネによる福音書2章13~22節
福音書 ヨハネ2:13~22 (新166)
13ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。 14そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。 15イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、 16鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」 17弟子たちは、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い出した。 18ユダヤ人たちはイエスに、「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言った。 19イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」 20それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言った。 21イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。 22イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。
今日の福音書の物語はイエス様が過越祭のためにエルサレムへ行かれた場面です。そこでイエス様が目にされたのは、エルサレムの神殿の境内で動物が売り買いされ、両替が行われている有様でした。それを見て、イエス様は結構激しいやり方で商売に携わる人々を追い出してしまわれます。
少しだけ聖書に書かれていることの背景を説明いたします。まず過越祭というのは、出エジプトの出来事を記念するユダヤ教の大きなお祭りでした。この時期になるとユダヤの人々は自分の住んでいるところからエルサレム神殿まで、遠く巡礼に出かけます。そして、神殿で犠牲の動物を捧げたり、献金をしたりして、礼拝に参加していました。そこで必要になったのが先ほど申し上げたような牛や羊や鳩を売る人、そして両替をする人です。長い道のりを旅してエルサレムにやってくる人たちは、捧げものにする動物を家から連れて来ることができません。そのためこれを神殿の境内で買って、そして捧げていました。また、神殿税という献金を納めるときには、普段使っているローマ帝国の硬貨が使えませんでした。そういった硬貨には異国の王の姿が刻まれていたので、これを神様に捧げるのは適切でないとされていたためです。そのためお金をシェケルという硬貨に両替する必要がありました。こうした理由で神殿の境内には両替人が座っていたのです。
このような背景を振り返ると、当時のユダヤの人たちがしていたことは、そんなに悪いことではないように思います。私たちも家から聖書と讃美歌を持ってくるのが大変だから、教会に聖書と讃美歌を置いていますよね。同じようにユダヤの人たちは、礼拝に必要なものを家から持ってくることが困難な場合、神殿でそれを調達していました。すべては、礼拝のためにしていることだったのです。この聖書の物語は伝統的に「イエスの宮清め」と呼ばれていますが、「宮清め」という表現が適当であるかどうかは少し疑問です。なぜなら別に、当時神殿にいたユダヤ人たちは、何かよくない、清くないことをしていたわけではないからです。むしろ、神殿の境内における動物の売り買いと両替は、実際には、それぞれ礼拝のために不可欠な経済活動であったということができるでしょう。
ではなぜ、イエス様はこれらのものを神殿から追い出してしまわれたのでしょうか。それは、イエス様がご自身を私たちに証しされるためであったと思うのです。イエス様は、この出来事を通してご自分の十字架と復活を予告されました。そしてイエス様ご自身が神殿である、すなわち神の臨在であると宣言されたのでした。
そもそもエルサレムの神殿に、どうして人々は遠くから巡礼に来ていたのでしょうか。それは、そこが神のおられる場所であると信じていたからです。この地上にあって神が宿る、まさにその場所であると思うからこそ、わざわざエルサレム神殿まで行って礼拝したのです。では、その神殿で、何のために動物や神殿税を捧げていたのでしょうか。それは、犠牲の捧げものによって、神と人間の関係が保たれると信じていたから、それによって神が証しされると信じていたから、わざわざ境内で動物を買ってそれを捧げていたのです。
私たちキリスト者にとってはどうでしょうか。私たちにとって神はどこに宿り、何によって証しされるでしょうか。今日の聖書は言います。イエスが神殿である、と。イエス様ご自身が神の臨在であり、イエス様を通して証しされる神を信じなさいと、聖書は私たちに語りかけているのです。このときもはや建造物としての神殿や、犠牲の捧げものは不要です。そうではなくて、イエス様を信じ、イエス様を通して神様とつながる信仰に、私たちは招かれているのです。
ですからユダヤ教の神殿における犠牲の捧げものと、キリスト教の教会での礼拝には違いがあります。それは、私たちはこの場所そのものを礼拝しているわけでもなければ、どれだけ犠牲の捧げものをしたとか、そういう私たち自身の行いによって信仰がはかられているわけでもないということです。イエス様を信じる信仰への招きは、犠牲を通しての信仰とは違うものです。犠牲を通しての信仰において、犠牲とは、人が神にささげるものでありました。イエス様を信じる信仰は、これをまったく逆転させるのです。つまり、神がご自身を私たちに捧げてくださった、私たちのために犠牲となってくださったことを信じる信仰です。そして、その恵みを、こうして共に集って受けとる、それがキリスト教の礼拝であると言うことができるでしょう。
今日の聖書の物語は、神殿であるイエス様は、苦しみを受け、十字架で死に、そして三日目によみがえられる、そういうお方であると私たちに伝えています。イエス様はこれらのことを通して、人間に罪の赦しと恵みとを与えてくださいました。ここに福音があります。私たちは、犠牲のささげものに代表されるような私たち自身の行いによってではなく、ただイエス様の十字架によって救われたのです。そのことを信じるようにと、今日の聖書の言葉は私たちを招いています。
今日は四旬節の三週目です。まもなく私たちはイエス様のご受難の物語に差し掛かります。神殿であったイエス様を、私たち人間は礼拝するのではなく、それを食い尽くし、壊してしまったということを心にとめておかなければなりません。私たちのために十字架におかかりになったイエス様は、神の神殿であり証しであったということ、そして、イエス様がご自分の予告通り三日目に復活してくださったことを心にとめて、この時を過ごしてまいりたいと思います。
3月3日 教会の祈り
司)祈りましょう。
全能の神様。1月1日に能登半島で大きな地震が発生しました。被害に遭われ、今も不自由な生活を送っておられる方々が、あなたによって守られ、あなたによって慰められますように祈ります。
主なる神様。本日午後七時から東京教会で行われる「教職授任按手式」を顧みてください。この按手式をもって牧師となる笠井春子さん、三浦慎里子さん、デイビッド・ネルソンさん、河田礼生さんを祝福して、あなたの僕として用いてください。集われる関係者のみなさんにとって、今日の按手式がすばらしい喜びの時となりますように祈ります。
慈しみの神様。あなたは造られたものを憎まず、悔い改めるすべての者を赦してくださるお方です。私たちのうちに悔い改めの心を起こし、あなたの赦しにあずかることができるようにしてください。
私たちの主イエス・キリストによって祈ります。
会)アーメン
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