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異邦人の信仰

2021年9月5日 聖霊降臨後第15主日

マルコによる福音書7章24~37節


福音書  マルコ7:24~37 (新75)

7: 24イエスはそこを立ち去って、ティルスの地方に行かれた。ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられたが、人々に気づかれてしまった。 25汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した。 26女はギリシア人でシリア・フェニキアの生まれであったが、娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだ。 27イエスは言われた。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」 28ところが、女は答えて言った。「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」 29そこで、イエスは言われた。「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。」 30女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた。

31それからまた、イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。 32人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。 33そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。 34そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。 35すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。 36イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた。しかし、イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。 37そして、すっかり驚いて言った。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」


先週の続きを読んでまいります。ゲネサレトでファリサイ派と律法学者に対峙されたイエス様は、彼らと群衆に教えた後、そこを立ち去ってティルスの地方に行かれます。そこで起こるのが今日の「シリア・フェニキアの女の信仰」の物語です。ティルスは現在のシリアであるフェニキア地方の古代都市で、貿易で栄えた主要都市でありました。


もともとフェニキア人はエジプトやバビロニアなどの古代国家の狭間にあたる地域に居住していましたが、近隣の大国の影響を受けて次第に文明化し、紀元前15世紀頃から都市国家を形成しはじめたと言われています。盛んな海上貿易によってフェニキアは栄えましたが、紀元前9~8世紀頃にアッシリアに服属させられたのを皮切りに、新バビロニア、ペルシアに服属し、最後にはアレクサンドロス大王に征服されてヘレニズム世界(ギリシア文化圏)の一部となりました。長々と書いてしまいましたが、何が言いたかったかというと、このような歴史を持つフェニキア人はユダヤ人とは別の民族であるということです。ユダヤ人から見てフェニキア人は異邦人であり、フェニキアの土地もユダヤの一部ではありません。


このような異邦の地にイエス様が赴かれることは少なく、フェニキアを除いてはゲラサ人の地方(5:1)に行かれたのみであったと伝えられています。一方で3:8には「エルサレム、イドマヤ、ヨルダン川の向こう側、ティルスやシドンの辺りからもおびただしい群衆が、イエスのしておられることを残らず聞いて、そばに集まって来た。」と記されていて、イエス様の評判がそのような遠い異邦の土地まで広まっていたことが伺えます。この時イエス様がティルスに移動された目的ははっきりとはわかりませんが、おそらくは群衆から離れて休息し、弟子たちと静かに過ごすためでしょう。そのためイエス様はティルスに来て、「ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられ」ましたが、結局は人々に気付かれてしまいました。


そんなイエス様のもとに一人の女性がやってきます。彼女には汚れた霊に取りつかれた幼い娘がいましたが、すぐにイエス様のことを聞きつけて、娘から悪霊を追い出してくださいと頼みに来たのです。「汚れた霊」「悪霊」とは神に敵対する存在、この世の悪や不浄を指しており、人間には治すことのできない病気はこの「汚れた霊」が引き起こすとされていました。


女性は娘を助けたい一心でイエス様の足もとにひれ伏します。同じように足もとにひれ伏して癒しを願った例は、重い皮膚病を患う人(3:40)や会堂長ヤイロ(5:22)のエピソードにも見られます。いずれもイエス様はその熱心さを受け入れて、彼らの望みをかなえてくださったのでした。しかし今回のケースは依頼者が異邦人の女性であるという点で異なっています。ユダヤの社会において異邦人の地位は低いもので、ユダヤ人は異邦人と交わるのを極端に嫌いました。また女性の地位も低く、女性はあくまでも男性に従属するものとして扱われ、男女が公共の場所で言葉を交わすことすらも良くないこととされていました。


しかし女性は大胆にもイエス様の前に進み出て、娘から悪霊を追い出してほしいと願います。それに対してイエス様は「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」とお答えになります。「パン」とは救いのこと、「子供たち」とはユダヤ人のこと、「小犬」とは異邦人のことです。一見冷たい回答ですが、ここではイエス様が「まず」と言われている点に注目したいと思います。イエス様は異邦人の救いを完全に拒否しているのではなく、「まずユダヤ人(次に異邦人)」という救いの段階的広がりをここで語っておられるのです。契約の民であるユダヤ人の特別な位置付けが変わることはありませんが、最終的に救いがユダヤ人を超えて異邦人へと及んでいくことが暗示されています。


イエス様の発言の真意をくみ取って、女性は機知に富んだ言葉を返します。彼女は「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」と答え、イエス様の言葉を理解した上で、なおイエス様の救いを求めたのです。女性は、救いがまずユダヤ人に与えられるということを承認しつつも、異邦人の救いを諦めていません。イエス様ならきっと、ユダヤ人たちにしてくださったことを自分の娘にもしてくださるだろうと、彼女は信じていました。謙虚さと粘り強さの中に、イエス様の救いを確信する信仰が見て取れます。


それを聞いたイエス様は「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。」と言われます。イエス様は女性の信仰を認められ、即座に願いをかなえてくださったのでした。先週の箇所でイエス様が問題にされたのは、律法遵守に熱心になることによって、「心」が失われているということでしたね。イエス様はファリサイ派と律法学者を、伝統を守ることには熱心だが心の中から出てくる悪い思いから目を背けているとして痛烈に批判しました。それに対してこの異邦人の女性が見せたのは心からの謙遜、心からの信仰でありました。先週の箇所と対比して読むことでイエス様が求めておられた信仰がどんなものかということがよくわかります。この異邦人の女性が見せた信仰は、救いに一番近いとされていた「ユダヤ人、男性、宗教家」の彼らの信仰にまさるものでした。救いに重要なのは人種や性別や立場ではないということが明らかにされたエピソードです。


今日の日課はさらに「耳が聞こえず舌の回らない人をいやす」の物語が続きます。イエス様は異邦の土地を経由してガリラヤに戻られますが、そんなイエス様のもとに人々が「耳が聞こえず舌の回らない人」を連れて来て、癒しを求めます。イエス様がこの人だけを群衆の中から連れ出し、「エッファタ」(アラム語で「開け」という意味)と呼びかけると、たちまちその人の耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになりました。


イエス様は群衆を伴わずにこの人を癒し、また起こったことを誰にも話してはならないと命じられました。しかし実際には「イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。」と書かれています。これと同様のことは何度も起こっていますが、イエス様は人に見せるため、有名になるためにこれらの癒しを行われたわけではありません。しかしイエス様ご自身の思いとは異なって、人々はイエス様のなさったことのすばらしさを言い広めずにはいられませんでした。


最後にマルコは「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」と記してこのエピソードを締めくくっています。今日の第一の日課であるイザヤ書35:5には「そのとき、見えない人の目が開き/聞こえない人の耳が開く。」という預言が記されています。これはメシア(救い主)の到来を預言したもので、目が見えない人が見えるようになったり、耳が聞こえない人が聞こえるようになったりすることは、メシアが来たということの目に見える証であると言い伝えられていました。イザヤによって預言されていたメシアとは、イエス様のことだったのです。


もっとも、どうして耳が聞こえない人が聞こえるようになることがメシア到来のしるしであるのかは、よくわかっていません。もちろん聞こえなかった耳が聞こえるようになることは、すごいことです。しかし一方で、イエス様は耳の聞こえない状態のこの人を伴われ、二人きりでそれなりにコミュニケーションを取りながら離れた場所まで行かれたわけで、イエス様にとっては耳が聞こえなくても別に問題ないのかなあと思ったりもします。神様は耳の聞こえない人にも語りかけ、目の見えない人にも御国を見せることがお出来になる方であるからです。それでも「聞こえる耳」を求めた人々と本人のために、イエス様は癒しを行ってくださったのかもしれません。


身体的なことを別にすれば、「聞こえない耳」は私たちすべてが持っていると言うこともできます。それは神様の声を聞く耳で、神様の呼びかけに対して、私たちはそれをはっきりと聞き取ることができず、また舌がもつれてうまく返答することができません。しかしイエス様はそんな私たちを連れ出し、私たちに触れて、私たちの耳を開いてくださいます。イエス様が到来されたことで、私たちはより神様の言葉に耳を傾けることができるようになりますし、よりはっきりとした言葉でそれに応答することができるようになるのです。


今日は二つの物語を読みました。イエス様は娘の癒しを求める異邦人の女性に応え、救いに重要なのは人種や性別や立場ではないということを明らかにされました。またこの時女性が見せた謙遜かつ大胆な信仰は、私たちの信仰のお手本となりました。その後イエス様は耳の聞こえない人を癒されて、ご自分がメシアであることをあらわされました。イエス様はイザヤの預言を成就されるとともに、私たちの神様の声を聞く耳を開いてくださるお方です。イエス様の旅はまだまだ続きます。来週も続きを読んでまいりたいと思います。



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