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父なる神のみもとへ帰る

本日は信徒説教者の田村圭太さんに説教をしていただきました。


2022年3月27日 四旬節第四主日

ルカによる福音書15章1~3節と11b~32節


福音書  ルカ15: 1~ 3,11b~32 (新138)

15: 1徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。 2すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。 3そこで、イエスは次のたとえを話された。


11b 「ある人に息子が二人いた。 12弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。 13何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった。 14何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。 15それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。 16彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。 17そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。 18ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。 19もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』 20そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。 21息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』 22しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。 23それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。 24この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。


25ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。 26そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。 27僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』 28兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。 29しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。 30ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』 31すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。 32だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」


聖書には、神さまそしてイエスさま、さらには多くの預言者や弟子たちそれぞれの言葉や行動が物語として記されており、その物語の中から私たちはみ言葉を聴き、み心を汲み取っています。この物語の中には名所とでもいうべき、多くの人に強い印象を与え、「この話は聞いたことがある」というような記憶に残る箇所がいくつもあります。

本日の福音書の日課である箇所は、「放蕩息子のたとえ」として知られる、新約聖書の中でも“名所中の名所” と呼ばれている箇所の一つです。このたとえ話は初めて読んだ人にも神さまの愛が理解できる、わかりやすい話だと言えると思います。


本日の日課の箇所は、1節から3節までの部分と11節の後半から32節まで(つまり、たとえ話全体)の部分から成っています。1節から3節までの記述によると、イエスさまは徴税人や罪人たちを迎えて、一緒に食事をされていました。徴税人はユダヤ人で、当時ユダヤを支配していたローマ帝国の税金に自らの手数料を加えたものを、自分の同胞であるユダヤ人から取り立てていました。このため、徴税人は異民族であるローマ人の支配に加担する裏切り者として、さらには税金の取り立てに便乗して私腹を肥やす者として、同じユダヤ人から嫌われていました。特に、ファリサイ派の人々や律法学者からは、神さまから決して救われることのない罪人と見なされていました。

そのような徴税人や罪人たちをイエスさまは迎え入れて、一緒に食事をされていました。当時のユダヤ社会では、“一緒に食事をする”ということは、神さまに救われた人々による共同体を目に見える形で表現することと考えられていました。つまり、徴税人も神さまからの救いから決して漏れていない、ということをイエスさまは目に見える形で伝えておられていたのです。

このことが、律法によって人の価値を決めていたファリサイ派の人々や律法学者には全く理解できません。罪人たちとの食事に不平を言った彼らに対してイエスさまが語られたのが、3つのたとえ話です。このうち、本日の日課として取り上げられているのが3つ目のたとえ話です。


二人の兄弟のうち、弟が父親から自分がいただくことになっている財産の分け前をもらいます。この「財産の分け前」とは、父親が亡くなったら相続することになっている財産のことです。弟にとっては、父親は既に死んだも同然の存在でした。しかし、弟が財産を使い果たして世間的に転落した結果、やっとありついた仕事は豚の世話でした。ユダヤ人にとって豚は汚れた動物でしたので、その世話をすることは屈辱であったはずです。また、いなご豆は貧しい人の食べ物と考えられていましたので、それすら食べられないことは弟がどん底の状況にあることを表しています。

その弟が我に返って、父親のもとに帰って「天に対しても、父に対しても罪を犯した。息子と呼ばれる資格はない。雇い人の一人にしてほしい」と言おうと思い、父親のもとへと向かいます。

このようなとき、私たちは弟の方が先に父親を見つけるのが通常の再会の仕方だ、と思います。しかし、ルカ福音書は20節で「まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」と記しています。一度は自分を死人のように扱った弟に対して、父親は良い服を着せ、指輪をはめさせて、祝宴を始めた、とまで記されています。この記事は、父親のもとへ帰ろうとする弟の思いよりも、息子が自分のもとへの帰還を待っている父親の思いがはるかに強いことを物語っています。 

「憐れに思う」という表現は、新約聖書が書かれたギリシャ語では「はらわたがちぎれるほど苦しむ」という意味を持っています。父親は、弟の苦しんできた姿を見て、自分自身の苦しみとして覚えたのです。父親はそれほどまでに深い愛と慈しみを、弟に向けています。

このたとえ話では、父親は神さまを、弟は自分の意志で神さまの元を離れた、罪深い人間をたとえています。神さまは、ご自身から離れた罪深い私たちが帰って来ることを、私たちが「神さまのもとへ帰ろう」と思う以上に深い愛と慈しみをもって待っておられます。

福音書は、弟がどん底に落ちたような状況の中で「我に返った」と記しています。「我に返る」とは悔い改め、神さまへの回心のことです。悔い改めとは、自分自身の向かう方向を神さまへと変える、向き直ることです。神さまは私たち一人ひとりがご自身へと帰ってくることを、熱望しておられる、私たちが神さまに対して思う以上に強い思いで待っておられるのです。


このたとえ話は、弟にとっては福音の到来といえる出来事です。かたや、兄にしてみれば、弟に対する父親の態度が気に入りません。弟が放蕩の限りを尽くして苦しい思いをして帰って来たので祝宴を開いているのに対して、その間も父親とずっと一緒にいた自分には手厚い態度をとってくれない、と兄はすねています。弟に比べて自分は正しいのだ、と考えているのです。特に、30節に記されているように、兄は弟を「あなたのあの息子」と呼んでいます。自分の弟を弟と認めようとしない兄は、弟を迎え入れる父親の態度が理解できません。

そのような兄を父親はなだめます。兄が弟を「あなたのあの息子」と呼んだのを、父親は「お前のあの弟」と言い直しています。そして、次のように言います、「お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。」父親のこの言葉には、兄を決して責めるのでなく、お前の弟ではないか、自分の思いをわかってほしい、という思いがにじみ出ています。

このたとえ話では、兄はファリサイ派の人々や律法学者をたとえています。悔い改めた弟を受け入れない兄の態度は、罪人を相手にせず切り捨てる彼らの姿を表しています。


イエスさまは、ファリサイ派の人々や律法学者から、ご自身が徴税人や罪人たちと一緒に食事をされていることに不平を言われたとき、その理由として、「神さまは、罪人が滅んでいくのを決して望んでおられず、罪人が再びご自身のもとに立ち返って、神の子として生きることを望んでおられるのだ」ということを、たとえ話を用いて語られたのです。

弟が帰ってきたとき、そして兄が不満をつぶやいているとき、父親は次の同じ言葉を語りました。それは、「いなくなったのに見つかった」という言葉です。「いなくなった」という言葉は、ギリシャ語では「本来あるべきところから離れて力を発揮できず、滅びに至る」という意味があります。つまり、「いなくなった」という言葉には“滅びに向かう、転落する”という意味が込められています。しかし、弟は「見つかった」のです。父なる神さまのみもとへ帰ってきて、罪を赦されて救われ、永遠の命を生きるようになったのです。


この放蕩息子のたとえの箇所は3年に1回、四旬節の中で福音書の日課として用いられています。私たちは、罪を赦され、神さまのみもとで永遠の命を生きるものとして、神の御子イエスさまが十字架での苦難を受けられる道行きを覚える時期を過ごしています。私たちは、悔い改めと罪の赦しによって神さまにつながるよう、神さまと私たちをとりなしてくださる主イエスのご受難を、そして、神さまが深い愛と慈しみをもって私たち一人ひとりを迎え入れ、常にともにいてくださっていることを覚えながら、これからの新しい日々を歩んでいきたいと思います。      



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