洗礼者ヨハネ
2021年7月11日 聖霊降臨後第7主日
マルコによる福音書6章14節~29節
福音書 マルコ 6:14~29 (新71)
6: 14イエスの名が知れ渡ったので、ヘロデ王の耳にも入った。人々は言っていた。「洗礼者ヨハネが死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている。」 15そのほかにも、「彼はエリヤだ」と言う人もいれば、「昔の預言者のような預言者だ」と言う人もいた。 16ところが、ヘロデはこれを聞いて、「わたしが首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ」と言った。 17実は、ヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻ヘロディアと結婚しており、そのことで人をやってヨハネを捕らえさせ、牢につないでいた。 18ヨハネが、「自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない」とヘロデに言ったからである。 19そこで、ヘロディアはヨハネを恨み、彼を殺そうと思っていたが、できないでいた。 20なぜなら、ヘロデが、ヨハネは正しい聖なる人であることを知って、彼を恐れ、保護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていたからである。 21ところが、良い機会が訪れた。ヘロデが、自分の誕生日の祝いに高官や将校、ガリラヤの有力者などを招いて宴会を催すと、 22ヘロディアの娘が入って来て踊りをおどり、ヘロデとその客を喜ばせた。そこで、王は少女に、「欲しいものがあれば何でも言いなさい。お前にやろう」と言い、 23更に、「お前が願うなら、この国の半分でもやろう」と固く誓ったのである。 24少女が座を外して、母親に、「何を願いましょうか」と言うと、母親は、「洗礼者ヨハネの首を」と言った。 25早速、少女は大急ぎで王のところに行き、「今すぐに洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、いただきとうございます」と願った。 26王は非常に心を痛めたが、誓ったことではあるし、また客の手前、少女の願いを退けたくなかった。 27そこで、王は衛兵を遣わし、ヨハネの首を持って来るようにと命じた。衛兵は出て行き、牢の中でヨハネの首をはね、 28盆に載せて持って来て少女に渡し、少女はそれを母親に渡した。 29ヨハネの弟子たちはこのことを聞き、やって来て、遺体を引き取り、墓に納めた。
先週の聖書の物語では、イエス様が十二人の弟子たちを伝道に派遣されました。その弟子たちが帰ってくるまでの間に、洗礼者ヨハネの死に関する記事が挿入されています。洗礼者ヨハネはイエス様の先駆者として、ユダヤの人々に救い主の到来を告げ、悔い改めを呼びかけた人でした。福音書を見ると、1章9節にはイエス様がヨハネから洗礼を受けられたということが、1章14節にはヨハネが何者かに捕らえられたということが、それぞれ記されています。
今日の物語は、イエス様の評判が知れ渡り、それがヘロデ王の耳にも入ったというところから始まります。ここでヘロデ王と呼ばれているのはヘロデ・アンティパスのことで、紀元前4年から43年間、ガリラヤとペレアを治めた人物です。ちなみにマタイ福音書でベツレヘム周辺に生まれた赤ちゃんを皆殺しにしたと書かれているヘロデ大王は別人で、彼の父親にあたります。
当時のガリラヤで、人々はイエス様のことを様々にうわさしていました。「洗礼者ヨハネが死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている。」と言う人もいました。洗礼者ヨハネが奇跡を行っていたという記述は聖書にはありませんし、特に根拠のある言説ではなかったものの、当時多くの人がそう信じていました。また他の人は「彼はエリヤだ」とか、「昔の預言者のような預言者だ」と言っていました。エリヤは紀元前9世紀に活躍した預言者です。エリヤは死ぬことなく天に上げられたという聖書の記述から、ずっと生き続けていていつか再び現れると信じられていました。昔の預言者のような預言者、という言い回しは、旧約聖書に登場するような偉大な預言者という意味で用いられていると思われます。実際に、最後の預言者マラキが預言をしてから500年間、イスラエルには目立った預言者が現れませんでした。イエス様と同時代の人々にとって、預言者は遠い昔の存在となっていたのです。
このように、ナザレのイエスは何者かということについて、世間には様々な説が存在していましたが、ヘロデは「イエスは生き返ったヨハネである」という説を信じていました。「わたしが首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ」と言っているように、彼がそう信じたのは、ヨハネを不当に処刑したのは自分だという罪悪感が心のうちにあったからでした。
ことはヘロデが自分の兄弟フィリポの妻へロディアと結婚したことにさかのぼります。彼はかつてナバテアの王アレタの娘と結婚していましたが、その妻と離婚して異母兄弟のフィリポの妻、へロディアと結婚しました。(父ヘロデ大王には10人の妻と14人の子どもがいましたので、ヘロデ・アンティパスには異母兄弟がたくさんいました。)へロディアもフィリポと離婚してヘロデと結婚しましたが、彼女はヘロデの姪でもありました。
ヨハネはこの結婚を公然と非難した結果、捕らえられて牢に入れられることになります。ヨハネはヘロデに「自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない」と言いました。レビ記20:21には「兄弟の妻をめとる者は、汚らわしいことをし、兄弟を辱めたのであり、男も女も子に恵まれることはない。」とあります。子どもに恵まれないこと自体は悪い行いの結果ではないと思いますが、ともかくヘロデの結婚はユダヤの社会では違法行為であったわけです。ヨハネはこの結婚に反対しました。
ヘロデの妻へロディアはそのことでヨハネを恨みます。どれくらい恨んでいたかというと「彼を殺そうと思っていたができないでいた」と書かれているくらいです。へロディアは執念深くて手段を選ばない人物だったようです。なお、のちにヘロデ・アンティパスが失脚する原因を作ったのもこのヘロディアで、詳細は割愛しますが最終的にヘロデはガリラヤを追放され、ヘロデの領地はヘロディアの兄弟アグリッパに引き継がれています。
一方でヘロデはヨハネのことを「正しい聖なる人」ととらえ、当惑しながらも喜んでその教えに耳を傾けていました。口語訳では「彼を恐れ、彼に保護を加え、またその教を聞いて非常に悩みながらも、なお喜んで聞いていた」と書かれています。実はヘロデは生粋のユダヤ人ではありません。彼の父ヘロデ大王はエドム出身、彼の母マルサーケはサマリア人でありました。ヘロデは厳格なユダヤ教徒ではなかったものの、ユダヤ教に対してある程度の理解はあったようです。ヨハネの教えに喜んで耳を傾け、彼を殺そうとはしませんでした。
しかし妻のへロディアにとってよい機会が訪れます。ヘロデの誕生日パーティーです。ヘロデは高官や将校、ガリラヤの有力者など、上流階級の人々を招いて宴会を催します。そこでヘロディアは自分の娘に踊りをおどらせて、ヘロデとその客を喜ばせました。ヘロディアの娘の名は「サロメ」であったと言われていますが、それについては聖書のどこにも記述がありません。彼女はおそらくはヘロディアの連れ子で、ヘロデにとっては義理の娘でありました。当時、人前で踊るという行為は身分の低い者のすることとされていて、王の娘がするようなことではありませんでした。ヘロディアは自らの目的を達成するため、娘にそんなことまでさせたことになります。
踊りを喜んだヘロデはヘロディアの娘に対し「欲しいものがあれば何でもやろう」「お前が願うなら、この国の半分でもやろう」と言います。軽率な発言です。少女は座を外して、母へロディアに何を願うべきかと問いました。母の答えはもちろん「洗礼者ヨハネの首」でありました。少女は「大急ぎで」ヘロデのところに行き、「今すぐに」洗礼者ヨハネの首が欲しいと願います。彼女がこんなにも急いだ背景には、正規の裁判を回避したいという意図があったと思われます。
この願いを受けて、ヘロデは非常に心を痛めます。彼自身は洗礼者ヨハネの教えを喜んで聞いていたからです。しかし、少女に何でも与えると固く誓った手前、また客の手前、ヨハネの処刑を命じました。衛兵はヨハネの首をはね、それをお盆に載せて持って来て少女に渡します。残虐な光景です。こうして「正しい聖なる人」ヨハネは、ヘロデの誕生日パーティーの余興としてあっさりと処刑されてしまいます。
洗礼者ヨハネの死は、人々の気分や同調圧力によってもたらされた、あまりにも軽いものでした。ヘロデの発言の軽率さ、へロディアの手段を選ばない横暴さ、ヘロデの決断に異議をはさまなかった来客や取り巻きの無責任さ、こうした状況の中でヨハネは正規の裁判を経ることもなく処刑されてしまいます。深い考えもなく、成り行きで殺されてしまうのです。
そのようなヨハネの死は、これから待ち受けているイエス様の死を暗示しています。洗礼者ヨハネが宴席のノリで処刑されてしまったのと同じように、イエスも人々の気分と同調圧力によって十字架にかけられてしまうのです。ヨハネは裁判を受けることなく死刑となり、イエス様は不当な裁判の結果死刑となりました。人々は偉大な預言者と救い主をこれほどまでになおざりに扱ったのです。成り行きで人を殺せてしまう人間の罪深さに気づかされます。私たちにしても、その当事者に自分だけはならない、なるはずがない、と言い切ることはできないのではないでしょうか。人間はだれしも、そういう弱さやずるさ、無責任さを持っているのです。
しかし聖書が伝えているのは、そのような人間のためにヨハネが死に、そしてイエス様が死なれたということです。イエス様はすべての人の救いのために十字架にかけられました。イエス様はヘロデのためにもへロディアのためにも死なれたのです。そして私たちのためにも、もしかしたら自分もヨハネを殺していたかもしれないと思う私たちのためにも、イエス様は死なれました。私たちはそれでも赦され、救われています。
聖書は人間の流されやすさやずるさをありのままに描いています。それと同時に、それでも人間がイエス様によって救われているということを伝えています。そのことが私たちの希望、私たちの慰めです。来週はイエス様と弟子たちのお話に戻ります。またここに集ってみ言葉を聞きましょう。
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