永遠の王キリスト
2024年11月23日・24日 聖霊降臨後最終主日
福音書 ヨハネ18:33~37 (新205)
18:33そこで、ピラトはもう一度官邸に入り、イエスを呼び出して、「お前がユダヤ人の王なのか」と言った。 34イエスはお答えになった。「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか。」 35ピラトは言い返した。「わたしはユダヤ人なのか。お前の同胞や祭司長たちが、お前をわたしに引き渡したのだ。いったい何をしたのか。」 36イエスはお答えになった。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」 37そこでピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」
今日は聖霊降臨後最終主日、そして永遠の王キリストの日です。5月25日・26日から始まった聖霊降臨後の期節も本日をもって終了し、来週からは新しい教会の一年が始まります。ペンテコステ後の期節である聖霊降臨後主日は、キリストが栄光のうちに再臨されるまで、教会が長い中間時を送ることを象徴する期間です。イエス様が天に昇られてから終わりの時に再び世に来られるまでの長い期間を象徴しています。そしてこの締めくくりにあたるのが永遠の王キリストの日です。
「永遠の王キリスト」は1925年に教皇ピオ11世によって定められた比較的新しい祭日です。人類が自らの利益のために対立し、世界の国々の支配者の力が強まる世の中にあって、キリストこそが真の王であることを再び認識するために設けられたと言われています。この時ドイツではヒットラー、イタリアではムッソリーニ、ソビエトではスターリンが独裁体制を固めつつあり、世界の国々は絶対的な指導者による強い政治を求めていました。そんな時代にあって、教会はそれらの地上の指導者の上にイエス・キリストが君臨しておられることを訴えたのです。
今日の聖書箇所では、我々が築く地上の王国、我々が仕える地上の王の上に、イエス・キリストが真の王としておられるということが言われています。どんなに優れた人も本当の意味で王にはなり得ないと知り、真の王イエスに仕えて生きることの大切さが語られているのです。そもそも聖霊降臨後の期節が象徴するのは、私たちが生きているのは再びイエスがこの世に来られるまでの中間時に過ぎないということでした。今あるものはいつか滅びて、私たちにとっての終わりの時、神様にとっての完成の時が訪れます。神様から見れば、私たちが今あるものを誇ること自体、意味のないことであるのです。聖霊降臨後最終主日であるこの日、イエス様を王とする神の国を思い起こして、心を謙遜にして教会暦の一年を締めくくることが求められています。
今日の聖書の物語は、イエス様がローマ帝国の総督ポンテオ・ピラトのもとに連れて行かれるところから始まります。イエス様はすでにユダヤ人の裁判機関である最高法院で有罪判決を受けていましたが、ユダヤ人の有力者たちはイエス様をさらにピラトに引き渡します。それは、彼らの最高法院には死刑の決定権がなかったからです。総督のもとに押し掛けてローマの裁判権を濫用するほどに、彼らはイエス様が死刑になることを望んでいたのでした。
そういういきさつがあって、ピラトは自分にとっては半ばどうでもいいことながら、このイエスという不幸な男を尋問することになります。ピラトははじめ単刀直入に「お前がユダヤ人の王なのか」と尋ねます。それは、イエス様がメシア運動(ユダヤ人の間にメシアがあらわれて同胞をローマ帝国の支配から解放するという民族運動)の首謀者なのかということであり、つまりはローマ帝国に対する反逆者・革命家なのかということでした。
イエス様はそれに対して「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか。」とお答えになります。イエス様がローマ帝国の反逆者であるというのは、それはピラト自身の見解なのか、それとも大祭司たちの訴えをそのまま伝えているのか、と問うているのです。
ピラトはイエス様に「わたしはユダヤ人なのか。お前の同胞や祭司長たちが、お前をわたしに引き渡したのだ。いったい何をしたのか。」と言い返します。もちろん彼はユダヤ人ではありません。ユダヤ人ではないから、単なるユダヤ人同士の揉め事であるこの件をできるだけ早く片付けたいのです。だからイエス様に「いったい何の罪を犯してこんなに恨まれているのだ」と引き続き尋ねています。
そこでイエス様はピラトの最初の質問にお答えになります。「わたしの国」「わたしの部下」「わたしの支配するところ」が存在すると。しかしそれはこの世には属していない。もしそれがこの世のものであったならこんなことにはなっていないはずである。そんな風に言われます。イエス様の国はこの世のものではないので、ローマ帝国にとって少しも危険ではありません。それは地上のほかの国々と違ってこの世の政治的・武力的なものではないからです。
それを受けてピラトは「それでは、やはり王なのか」と尋ねます。イエス様が言っていることの意味がよくわからないので「王を自称しているということでいいのか」と確認しているわけです。確かに、イエス様は王です。しかしそれはイエス様がこの世における政治的権力者・武力保持者であるということとは異なっています。イエス様ご自身も「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」とおっしゃっています。イエス様が王として求めておられるのは、権力ではなく信仰です。イエス様が王としてこの世に来られたのは、この世を支配するためではなく天の御国に人々を導くためです。なぜならイエス様は地上の王を超越する「永遠の王」であるからです。
その前提に立ってイエス様は今日のようなお話をされましたが、人間がイエス様のおっしゃったことの意味を悟るのはもっとずっと後になってからです。イエス様はこの裁判で死刑の判決を受け、十字架にかけられることになりました。イエス様が本当の王、永遠の王であるということが、人間にはわからなかったからです。人々がそのことを悟り始めるには、復活の奇跡と聖霊降臨を待たなければなりませんでした。
以上が今日の物語、永遠の王キリストについての教えでありました。私たちはイエス様が再び来られるまで、人が人を支配し王になることを受け入れますが、しかし私たちの真の王は主イエスであるということを忘れてはなりません。イエス様の王国、神の国は、この世には属さない、今は目に見ることのできないものです。しかし私たちはすでにその国の民であり、イエス様を私たちの王として戴いています。すべてが完成する終わりの日に、それはますます明らかになるでしょう。聖霊降臨後最終主日であるこの日、永遠の王であるイエス様をすべての上に置き、自分を低くして新しい一年の始まりを待ちたいと思います。
11月23日・24日 教会の祈り
司)祈りましょう。
全能の神様。世界が平和でありますように祈ります。私たち人間の犯す争い、破壊、混乱をお許しください。命を脅かされ、心身に傷を負っている人々を顧みてください。この世のすべての人々が愛と平和のもとで共に生きる者となりますように。
恵みの神様。病気療養中の人、入院中の人、そしてそのご家族を顧みてください。痛みや不自由さと共に過ごす中にあっても、神様からくる希望を与え、あなたに守られていることを信じて生活することができますように助けてください。
慈しみの神様。聖霊降臨後最終主日のこの日、教会の一年は締めくくりの日を迎えました。この一年も様々なことがありましたが、こうしてあなたにつながり続けていられたことを感謝します。私たちがイエス・キリストを王として仰ぎ、謙遜な心で新しい一年を始めることができますように導いてください。
私たちの主イエス・キリストによって祈ります。
会)アーメン
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