捨てなさい
2022年9月4日 聖霊降臨後第十三主日
ルカによる福音書14章25~33節
福音書 ルカ14:25~33 (新137)
14: 25大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。 26「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。 27自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。 28あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。 29そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、 30『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう。 31また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。 32もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう。 33だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」
イエス様はガリラヤを離れ、エルサレムに向かって旅をしておられます。エルサレムが近づくにつれ、イエス様を慕う人々の数はますます多くなり、今日の14章25節では「大勢の群衆が一緒について来た」と書かれています。そこでイエス様が群衆のほうを振り向いて「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。」と教え始められるところから今日の物語は始まります。
なかなか衝撃的な言葉ですが、多くの聖書学者たちはこの言葉を、イエス様がご自分に従うことの難しさを強調してこのように言われたものと解釈しています。話の前後関係を含めて考えると、この箇所の強調点は「家族を憎むこと」ではなくて「イエス様の弟子になることの厳しさ」にあると考える方が自然だからです。もちろんイエス様がおっしゃったことのそのままの意味を受け取って吟味することは大切ですが、こういう言葉を取り上げて家族と離れることを強要する団体があるとすれば、実際にはそれは反社会的カルトである可能性が高いです。
こうしてイエス様は、弟子になることの厳しさを人々に教えられました。イエス様に従うためにすべてのものを捨て、自分の命さえも捨てる覚悟がなければ、私の弟子になることはできない、私に最後までついてくることはできない、ということが言われています。実際にイエス様がこれから歩まれる十字架の道のりは群衆が想像したよりもはるかに厳しいもので、ガリラヤから従ってきた弟子たちもあまりの悲惨さに逃げ出してしまったほどでした。
私に従う道は厳しい、とイエス様は群衆に警告しておられます。その最上級の厳しさを表すために家族を捨てること、自分の命を捨てることを引き合いに出されるほどです。イエス様がそのようなお話をされた背景には、イエス様の教えと奇跡のわざに熱狂した多くの人々が、軽率にイエス様の弟子になることを志願していたといういきさつがありました。それに対してイエス様は、浮かれた気持ちで弟子に志願してはいけないと警告しておられるのです。
イエス様はそのことを、二つのたとえを用いて話されています。一つ目は塔を建設する人のたとえです。イエス様は「あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう。」と言われます。
このたとえでは、イエス様に従うことの厳しさをよく考えずに弟子になろうとする行為が、充分に費用を計算せずに塔を建てようとする行為に重ねられています。軽率にイエス様の弟子になろうとする人は、塔の土台を築いただけで完成することができなかった人と同じように、弟子としての生き方を完遂することができません。それは愚かで危険な行為です。その人は皆にあざけられて恥をかくことになります。そうなるくらいなら最初から弟子に志願しない方がよい、本当に弟子になりたいならもっと覚悟をもって私のところに来なさいということが言われています。
二つ目のたとえは王の戦についてのたとえです。イエス様は「どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう。」と語られます。この世の王であっても、戦に出る前には勝算があるかどうか充分に考えるし、そこで勝ち目がないと分かれば戦争という手段を取るのをやめて早めに降参するだろうというのがイエス様の言い分です。弟子になりたいならば自分の力をよく吟味しなさい、できないことをしようとするなということが言われています。
イエス様はこの箇所を「だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」という言葉で結ばれます。このような厳しい言葉を用いて、熱狂した群衆が一時の思い付きでご自分に従うことを戒めておられるのです。なぜイエス様がこれほどまでに厳しい姿勢を取られるのかというと、人が軽率に弟子を志願する時、そこにあるのは自分に対する過信、思い上がりだからです。イエス様を信じる信仰という姿をまとっていても、実際にはそれはお金がないのに塔を建てようとしたり、戦力が足りないのに戦争をしたりすることと同じ、愚かなことであるということが言われています。
イエス様が誰のことも寄せ付けず、突き放したようにも聞こえるこの箇所ですが、しかしイエス様が群衆に「弟子にならないなら救われない」と言われたわけではありません。実際に、イエス様はご自分がひとりで十字架におかかりになることで、すべての人を救われました。イエス様からすれば、その人が弟子になったか、最後まで自分に従ったか、ということでその人を救うか救わないかを決めているわけではないのです。
弟子になれなかった人がどうなるかということについて、イエス様はその人が地獄に落ちるとか裁かれるとかおっしゃっているわけではありません。言われているのはせいぜい「皆の前で恥をかく」(29節)くらいのことです。弟子になることに挫折した人でも、結局みんな救われるのです。イエス様が人々に求めておられるのは、一時の思い付きでイエス様の弟子になることでも、歩きとおせないような厳しい道のりに救いを求めて歩みだすことでもありません。ただ自分の力を過信せず、イエス様を信じ、イエス様が与えてくださる救いを受け取ることです。
私たちにとってもそれは同じです。私たちは自分の熱心さをアピールしてイエス様に救ってもらうために毎週教会に来ているわけではありません。私たちがここにいるのは、自分がイエス様の十字架で救われていることを知り、思い出して、分かち合うためです。私たちは救いの喜びを確認するために今日もここにいます。イエス様が求めておられるのは、私たちが救いのためにやせがまんをしてできもしない約束をすることではありません。イエス様のためにすべてを投げ出すという本来望ましいあり方に留まれなくても、それでもイエス様は私たちを救ってくださっているという、その深い愛を信じることです。
イエス様は私たちが信仰的に熱狂し、一時の判断で極端な行いをすることを戒められました。私たちが信仰を理由にできもしない約束をすることを退けられました。確かに、私たちの歩む信仰の道のりは長いものです。この信仰生活を冷静に、末永く、そして自分の力を過信することなく最後まで歩んでいきたいと思います。イエス様による救いはすでに私たちのものだからです。
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