悪霊とイエス
2022年6月19日 聖霊降臨後第二主日
ルカによる福音書8章26~39節
福音書 ルカ8:26~39 (新119)
8:26一行は、ガリラヤの向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた。 27イエスが陸に上がられると、この町の者で、悪霊に取りつかれている男がやって来た。この男は長い間、衣服を身に着けず、家に住まないで墓場を住まいとしていた。 28イエスを見ると、わめきながらひれ伏し、大声で言った。「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。頼むから苦しめないでほしい。」 29イエスが、汚れた霊に男から出るように命じられたからである。この人は何回も汚れた霊に取りつかれたので、鎖でつながれ、足枷をはめられて監視されていたが、それを引きちぎっては、悪霊によって荒れ野へと駆り立てられていた。 30イエスが、「名は何というか」とお尋ねになると、「レギオン」と言った。たくさんの悪霊がこの男に入っていたからである。 31そして悪霊どもは、底なしの淵へ行けという命令を自分たちに出さないようにと、イエスに願った。
32ところで、その辺りの山で、たくさんの豚の群れがえさをあさっていた。悪霊どもが豚の中に入る許しを願うと、イエスはお許しになった。 33悪霊どもはその人から出て、豚の中に入った。すると、豚の群れは崖を下って湖になだれ込み、おぼれ死んだ。 34この出来事を見た豚飼いたちは逃げ出し、町や村にこのことを知らせた。 35そこで、人々はその出来事を見ようとしてやって来た。彼らはイエスのところに来ると、悪霊どもを追い出してもらった人が、服を着、正気になってイエスの足もとに座っているのを見て、恐ろしくなった。 36成り行きを見ていた人たちは、悪霊に取りつかれていた人の救われた次第を人々に知らせた。 37そこで、ゲラサ地方の人々は皆、自分たちのところから出て行ってもらいたいと、イエスに願った。彼らはすっかり恐れに取りつかれていたのである。そこで、イエスは舟に乗って帰ろうとされた。 38悪霊どもを追い出してもらった人が、お供したいとしきりに願ったが、イエスはこう言ってお帰しになった。 39「自分の家に帰りなさい。そして、神があなたになさったことをことごとく話して聞かせなさい。」その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとく町中に言い広めた。
今日から聖霊降臨後の期節に入りました(正確には先週の三位一体主日が聖霊降臨後第1主日の扱いになるので、先週からです)。ペンテコステ後の期節である聖霊降臨後主日は、キリストが栄光のうちに再臨されるまで、教会が新たな契約のもとに長い中間時を送ることを示唆する期間です。イエス様の昇天を見送り、約束の聖霊を受けた私たちは、聖霊の導きのもとにイエス様が再び世に来られるまでの間、聖書の言葉を聞き続けます。
今日の聖書の物語はイエス様が「ガリラヤの向こう岸にあるゲラサ人の地方」に行かれるところから始まります。イエス様はガリラヤ湖を西から東へ舟で渡って、向こう岸にある異邦人の土地に行かれました。ここはデカポリスと呼ばれる地域でギリシャの植民都市にあたり、ユダヤ人ではなく異邦人の住まう土地でした。
岸に着いたイエス様は一人の男に迎えられます。彼は「悪霊に取りつかれて」いて「長い間、衣服を身に着けず、家に住まないで墓場を住まいとしていた」とあります。悪霊に取りつかれていたこの人のことを町の人も知っていましたが、悪霊の力の前にどうすることもできず、結局のところ男は「鎖でつながれ、足枷をはめられて監視され」るという扱いを受けていました。
「悪霊」とは神に敵対する存在、この世の悪や不浄を指しており、人間には治すことのできない病気はこの悪霊が引き起こすとされていました。なおかつ悪霊は人間よりも力のある存在です。人間は悪霊をコントロールできませんが悪霊は人間をコントロールして意のままに操ることができます。
聖書は悪霊とは何かということについてあまり詳しく説明してくれませんが、悪霊に取りつかれるとどうなるかということについては、今日の聖書の箇所で比較的詳しく語られています。まず悪霊は取りついた人の行動を乗っ取ります。裸で墓場に住むとか、鎖を引きちぎって荒れ野に駆り立てられるとか、悪霊は男を乗っ取っておおよそ人間らしくない行動をさせています。
さらに、悪霊に取りつかれた人は行動だけではなく言葉も悪霊に乗っ取られたようになります。イエス様と会った時、この人は「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。頼むから苦しめないでほしい。」と言っていて、実際に喋っているのはこの人自身ではなく悪霊であるという書き方がされています。これは人間の言葉というよりは悪霊の言葉、イエス様が神の子だと見抜くことができるのは人間よりも霊的な存在である悪霊のほうだからです。
加えて悪霊は取りついた人からアイデンティティを奪います。その象徴であるのが名前です。イエス様が男に「名は何というか」とお尋ねになると、彼は「レギオン」と答えたと書かれています。「レギオン」とはローマ帝国の軍団を指す言葉で、最大6000人からなる大軍団を意味しています。たくさんの悪霊が集団でいることから彼はこの名を名乗ったわけですが、それは悪霊のアイデンティティを表している名であって、この人の本当の名前ではありません。この人には本当はもっとましな名前があったはずです。しかし悪霊は取りついた人の存在そのものを乗っ取り、本当のその人を思い出せなくしてしまいます。
そんな男をイエス様は憐れまれて、悪霊を追い出してくださいました。町の人たちは悪霊に取りつかれていた男が元通りになった姿を目にして驚きます。長年苦しんできたこの人が悪霊から解放されたということは、本来ならば喜ばしいことですが、町の人はそれを見て恐れを感じたとあります。人間の理解を超えることが起こって恐ろしくなったのかもしれませんし、悪霊を追い出したということはこの人はもっと恐ろしい悪霊なのだろうかと考えたのかもしれません。町の人々はイエス様に出て行ってくれるよう言いました。
そういうわけでイエス様はデカポリスに着いたばかりなのにもう帰ることになります。しかしイエス様の今回の旅は無駄ではありませんでした。イエス様はたった一人助けたこの男性のうちに信じる心を興されたからです。悪霊を追い出してもらった男はイエス様を信じ、イエス様にお供したいと願い出ました。しかしイエス様はこの男の人にむしろ町に残って、この奇跡について言い広めるようにお命じになりました。男は納得してそれに従ったようです。
男は悪霊に取りつかれていた時は自分の意志とは関係なく話し、行動していましたが、今は違います。男は自分の本当に思っていることを話して、イエス様と話し合った上で、イエス様に言われたことを行うことを自分で選択しています。イエス様は彼に自分の家に帰るように言います。もう正気に戻ったのだから、自分の家がどこか、自分がどこから来てどんな生活をしていたかわかるだろうと言うのです。アイデンティティを奪われていたこの人は、自分が誰であるのか、本当の自分を取り戻したのです。
今日は悪霊についての聖書箇所を読み、悪霊とはどういう存在かということについて考えました。悪霊について考える時、私たちは悪霊とイエス様がどんなに異なっているかということに気付きます。悪霊は人よりも力のある存在ですから、人を乗っ取り、人を意のままにコントロールしようとします。私たちから人格を奪い、悪霊の望むことを強制的に行わせます。
一方イエス様のことを考えてみると、イエス様は悪霊よりもさらに力あるお方ですから、本当は悪霊がする以上に私たちの言動や人格を支配する力をお持ちなのだろうと思います。イエス様ほどの力があれば、私たちを意のままに操るなど簡単なことでしょう。しかしイエス様は悪霊のように私たちを乗っ取って力ずくでイエス様を信じさせるようなことは決してなさらないのです。私たちの意志を無視して、強制的に私たちに宣教させたり祈らせたり教会に行かせたりすることはなさらないのです。なぜかというと、それは悪霊がすることであって神の子がすることではない、支配であって愛ではないということを知っておられるからです。
そうではなくて、イエス様は私たちが真心から愛をもってイエス様を信じ、自分の言葉でイエス様を語り、自分の意志でイエス様に従うことを喜んでくださいます。信仰するということは、誰かに人格を乗っ取られて操られるということとは違うのです。神様は私たちが本来の自分のままで神様とよい関係を結ぶことを望んでおられます。これから始まる聖霊降臨後の期節を通して、私たちの信仰がより豊かに養われますように祈っています。
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