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十字架と復活のキリスト

十字架と復活のキリスト 2023年9月3日 聖霊降臨後第十四主日 マタイによる福音書16章21~28節「十字架と復活のキリスト」 福音書  マタイ 16:21~28 (新32) 21このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。 22すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」 23イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」 24それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。 25自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。 26人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。 27人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。 28はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、人の子がその国と共に来るのを見るまでは、決して死なない者がいる。」 先週私たちはペトロの信仰告白の物語を聞きました。「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と問うイエス様に対して、弟子の代表であるペトロが「あなたはメシア・生ける神の子です」と答えたのです。人々がイエス様のことを預言者の一人と思っていたのに対して、弟子たちはイエス様が救い主であり神の子であるということを悟り始めていました。しかし弟子たちはイエス様が何者であるかを完全に理解していたわけではないようです。今日の福音書の日課にはそのことが描かれています。 今日の福音書の物語では、イエス様は弟子たちに対して、ご自分が十字架にかかって死ななければならないということを打ち明けられます。「多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている」というのです。このようなイエス様のお話は「受難予告」と呼ばれ、福音書の中で三回繰り返されます。これが一度目の受難予告です。イエス様はご自分がすべての人の救い主として罪の赦しのために十字架にお掛かりになることをご存じでした。そして、イエス様が救い主であるということを信じ始めた弟子たちに対してそのことを伝えられたのです。 しかし弟子たちはイエス様の受難予告を受け止めることができません。イエス様がずっと一緒にいてくださって、自分たちを導き守ってくださると思っていたでしょうから、とても不安になったと思います。しかしそれ以上に、弟子たちはイエス様がメシア(救い主)であるということをそういう風には理解していませんでした。弟子たちが信じていたのは十字架にかかってすべての人を罪から救うメシアではありません。そうではなくて、ユダヤ民族の新しい指導者になって、戦いに勝ってイスラエルの国を豊かにするメシアでした。 そしてそう思っていたのは弟子たちだけではありません。イスラエルの人々にとってメシアとはそういう存在、ダビデのような強くて賢い王様が再び現れて、ユダヤ民族を救ってくださるという信仰が彼らの信仰の根幹でした。そういうわけで弟子たちは、イエス様が十字架に掛かって死ぬことも、世界中すべての人を救うことも、別に求めていなかったのです。 ですから弟子たちは混乱します。世界なんか救わなくていいから我々とイスラエルの民に輝かしい未来を与えてほしいと思ったことでしょう。そして何よりそのためにはまずイエス様が生きていてくれる必要があるわけです。そこでペトロは反論します。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」と、イエス様の受難予告に対して明らかに反対します。 新共同訳ではペトロはイエス様を「いさめた」となっていますが、これは原典ではほとんど「反論する」に近いような、結構強い意味の言葉です。救い主に向かって反論するというのはなかなか失礼な行為に思えますが、イエス様は人を押さえつけて支配するような方ではありません。聖書を読むと、イエス様は弟子たちに、そして出会う人たちに、ご自分に対して反論することを許しておられたということがわかります。 例えば、漁師をしていた弟子たちがイエス様と出会う場面です(ルカ5章)。「沖に漕ぎ出して漁をしなさい」と言われたイエス様に対して、弟子たちは「一晩中やったけど何も捕れませんでしたけど…」とちょっと不服気味に言います。ラザロが死ぬ場面もそうです(ヨハネ11章)。病気の知らせを聞いてもすぐには訪ねてきてくれなかったイエス様に対して、ラザロの姉妹であったマルタは「あなたがここにいてくださったら私の兄弟は死ななかったでしょうに」と食って掛かります。なんでこんなに遅れてくるんだと言わんばかりです。 このほかにも、イエス様に反論する人たちは聖書の中に度々登場しますが、そのような人々をイエス様は裁くことがありません。むしろそのような人々の話に耳を傾けてくださったのが聖書の伝えるイエス様でした。弟子たちがもう一度網なんか投げても意味ないと思ったように、マルタがイエス様が来るのが遅すぎたんだと思ったように、そしてペトロがイエス様の十字架を受け入れられなかったように、私たちもまた受け入れられないことや無意味に思えることを経験します。そして私たちも、聖書の登場人物がしたように、イエス様に反論することがあっていいと思います。私たちがちょっと反論したくらいでイエス様が私たちを見捨てることはありません。 しかし聖書を読んでいると気づくことがあります。それは、人間には反論することが許されているけれども、でも結局間違っているのは人間のほうだということです。弟子たちは網を投げても魚なんか捕れるわけないと思っていました。しかし弟子たちのほうが間違っていました。漁をしてみると網は魚でいっぱいになりました。マルタはイエス様がもっと早く来てくれたならラザロは死ななかったのにと思っていました。しかしマルタの方が間違っていました。死んでいたラザロをもイエス様は生き返らせてくださいました。そしてペトロはイエス様が死ぬなんてあってはならないと思いました。しかしペトロのほうが間違っていました。イエス様は十字架にかかって、すべての人の救い主になられました。 今日のイエス様とペトロのやりとりは、私たちに人間の思いを超えた神の御心を教えます。ペトロにとって十字架はあってはならないことに見えていましたが、イエス様はそれこそが人類の救いであることをご存じでした。イエス様はペトロが反論することをお許しになる一方で、一見すると不都合なことの中にある神様の御心に目を向けてほしいと思っておられました。人間にとってあってはならないと思うようなことの中にも、神様の深いご計画があるからです。 十字架は、一見すると私たちを絶望させるもの、私たちに終わりをもたらすものです。しかしイエス様の十字架は、本当は私たちを希望で満たし、新しい命を約束するものでした。今日の物語から、十字架の主であるイエス様が私たちの人生を深いご計画で満たしてくださっていることを信じたいと思います。

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