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刈り入れの時

2023年7月25日 聖霊降臨後第八主日

マタイによる福音書13章24~30節と36~43節


福音書  マタイ 13:24~30&36~43 (新25)

13: 24イエスは、別のたとえを持ち出して言われた。「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。 25人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。 26芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。 27僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』 28主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、 29主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。 30刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』」

36それから、イエスは群衆を後に残して家にお入りになった。すると、弟子たちがそばに寄って来て、「畑の毒麦のたとえを説明してください」と言った。 37イエスはお答えになった。「良い種を蒔く者は人の子、 38畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。 39毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。 40だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。 41人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、 42燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。 43そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。耳のある者は聞きなさい。」


先週に引き続き、イエス様はたとえを用いて神の国について教えられています。今週は「毒麦のたとえ」です。先週の「種を蒔く人のたとえ」ではイエス様の言葉に対して色々な反応をする人がいるものだということが語られていました。続いて今日の日課では、この世における悪や不浄との付き合い方について、イエス様はたとえを用いて教えられています。


ある人が畑に良い種を蒔きました。良い種は成長すると麦になるようです。「ある人」はイエス様、「畑」は世界、「良い種」は御国の子らであると37節以下では言われています。イエス様がこの世界にみ言葉の種を蒔いて、神様を信じる人を育てようとしたということです。一応、神様を信じて教会に集う私たちは、自らをこの「良い種」であると信じています。


しかし夜中にこっそり悪い人が来て、同じ畑に毒麦の種を蒔きました。毒麦を蒔いたのは悪魔、毒麦は悪い者の子らであると38節以下で言われています。毒麦はイネ科の雑草で、麦とよく似ていますが食べると苦い味がしてめまいや嘔吐を引き起こすそうです。そんな毒麦の種が悪魔によって蒔かれて、神様を信じない人、悪を行う人が育ちます。


やがて実をつける時期を迎えると、麦の畑と思われていたところに毒麦が現れます。それを見たしもべ(畑で働く使用人)たちは戸惑い、主人のところに行って「だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。」と尋ねました。悪魔のすることは巧妙で、彼らは収穫の直前まで麦の中に毒麦が入っていることがわからなかったのです。


それに対して主人は「敵の仕業だ」と語ります。しもべたちは主人に、畑に行って毒麦を抜き集めてくることを提案しますが、主人はその必要はないと答えます。なぜなら「毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない」からです。毒麦のような雑草の方が麦よりも強い根を持っているので、引き抜く際に隣の麦の根っこがついてきて抜けてしまうのです。それを防ぐために、そのままにしておきなさいと主人は言います。


私たちはこのしもべの姿にも自らを見出します。自分から見て悪と映るもの、好ましくないと判断されるものを、早急に目の前から取り去ろうとします。そして自分にそれができると思っています。一方、そんな私たちをいさめて、そのままにしておきなさいと言われる主人が、神様です。正しくないものをさっさと取り去ろうとする私たちに対して、神様は「それは今あなたがするべきことではない」と言われます。


このたとえによれば、麦と毒麦が分けられるのは最後の段階、収穫の時です。刈り入れるときに麦は麦で集められて大切に保管され、毒麦は毒麦で集められて燃やされます(パレスチナでは木材が乏しいので枯れた雑草も燃料になりました)。同じように、神様を信じる人とそうでない人が分けられるのは、正しい人と正しくない人が分けられるのは、最後の審判の時であるというのです。また、その収穫を担うのは、つまり審判を手伝うのは、人間ではなく「天使たち」であるとこのたとえは語っています。


このように私たちは、神様が定めた終わりの時まで、悪や不信仰、自分の嫌いなものや合わないものと共に過ごすことを求められています。悪を一掃するために戦争をするとか、不浄なものを徹底的に避けるために集団で引きこもるとか、そういうことはキリスト教が目指しているものではありません。神様が与えてくださったこの世界で、色々なものと同居しながら、最後まで生き抜くことが求められています。


人類の歴史を振り返ってみても、ある人々が自分たちの信仰や自分たちの正しさに忠実であるあまり、自分たちと違う人や自分たちから見て正しくない人を、変えようとしたりあるいは殺そうとしたりする、ということが絶えず繰り返されてきました。また時に宗教というのは人間に備わっている悪や不浄が許せないという気持ちに共鳴します。その人の純粋さや正義感を利用して、その人をコントロールすることができるようになります。それが行き過ぎるとそれは健全な宗教ではなくて反社会的カルトと呼ばれます。


しかしながらイエス様のこのたとえ話は、そういうことをしてはならないということを語っています。ある意味で「人のことはほっときなさい」と言うのです。もちろん社会正義を行ってはならないということではありません。ただ、悪は存在するべきではなくて、不信仰は今すぐ世の中から消えるべきで、身の回りに不浄なものを一切入れてはならない、みたいな感じで極端な行動に走るのは違うということです。


この世界が神様の畑である限り、神様の定められた終わりの時までは、悪も不信仰も不浄もなくなることはありません。理由はわかりませんが、それが神様のみこころだからです。人間の努力や心がけだけで悪や不浄を根絶やしにできるということもありません。それは神様のみがおできになることだからです。


私たちに求められているのは、悪を排除することでも、敵を滅ぼすことでもありません。ただイエス様によって蒔かれた種として、神様を信頼して、この神様の畑で育つことです。そうしてすべてを神にお任せして、自分は精いっぱい愛をもって生きるということです。自らが正義となって裁きを行うのではなくて、ただ信仰と愛を生きるということです。神様の畑であるこの世界で私たちは精いっぱい生きていきたいと思います。

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