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信じなさい

2024年6月30日 聖霊降臨後第六主日

マルコによる福音書5章21~43節 「信じなさい」


福音書  マルコ5:21~43 (新70)

5:21イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると、大勢の群衆がそばに集まって来た。イエスは湖のほとりにおられた。 22会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、 23しきりに願った。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」 24そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた。

大勢の群衆も、イエスに従い、押し迫って来た。 25さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。 26多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。 27イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。 28「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。 29すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。 30イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。 31そこで、弟子たちは言った。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」 32しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。 33女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。 34イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」

35イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」 36イエスはその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた。 37そして、ペトロ、ヤコブ、またヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれもついて来ることをお許しにならなかった。 38一行は会堂長の家に着いた。イエスは人々が大声で泣きわめいて騒いでいるのを見て、 39家の中に入り、人々に言われた。「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」 40人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスは皆を外に出し、子供の両親と三人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入って行かれた。 41そして、子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。 42少女はすぐに起き上がって、歩きだした。もう十二歳になっていたからである。それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた。 43イエスはこのことをだれにも知らせないようにと厳しく命じ、また、食べ物を少女に与えるようにと言われた。

 

今日はこうして北九州地区の四教会が一同に会して共に礼拝をする機会が与えられました。最初の会場はここ直方教会です。直方教会は1909年に博多教会の出張伝道所として開設されました。数回の移転を経て、1932年に現在の場所に会堂が建てられます。この礼拝堂は築92年の木造建築です。美しい梁とステンドグラスをぜひご覧になってください。三教会のみなさんが遠くから集ってくださったこと、そして直方教会のみなさんが心を込めて今日のためにご準備くださったことに感謝申し上げます。


そんな記念すべき第一回合同礼拝の福音書日課に選ばれているのは「ヤイロの娘とイエスの服に触れる女」という話です。この物語には二つのテーマが描かれています。死者をも生き返らせるイエス様の絶大な力と、それを受け取る二人の伝説的信仰者の姿です。教父(教会の父)と呼ばれる古代の司祭および神学者たちは、このエピソードを「信仰の模範」と呼んで、ことのほか大切にしてきたと言われています。人間の持つ深くて強い信仰の力と、そこに注がれるイエス様の愛が存分に示されているお話しです。


今日の物語はマルコ福音書5章から始まります。5章のはじめに湖の向こう岸へ渡られたイエス様は、再び舟に乗ってガリラヤ湖西岸、ユダヤ人の住む地域に戻ってこられました。戻ってこられたイエス様は、いつものように大勢の群衆に囲まれています。そこへヤイロという名の会堂長がやってきます。会堂長というのはユダヤ人の会堂(シナゴーグ)における責任者でありました。会堂長になることができるのは通常、裕福で評判の良い信徒です。会堂長は金銭面においても信仰面においてもその会堂に責任を持つことになっています。そんなヤイロはやってくるなりイエス様の足もとにひれ伏しました。


ヤイロは「わたしの幼い娘が死にそうです」と言い、「おいでになって手を置いてやってください」とイエス様に願います。娘の病は絶望的な状況で、ヤイロにとってはイエス様に手を置いていただくことが最後の希望でありました。福音書には、イエス様が手を置いて触れることで病が癒されたというエピソードがたくさん記されています。人々はイエス様に触れていただくことで(あるいはこちらから触れることで)癒しが起こると信じていたのです。こうしてイエス様はヤイロの願いを聞き入れ、彼の家へと向かわれます。大勢の群衆が押し迫るようにしてイエス様に従いました。


そこに十二年間出血の止まらない女性が登場します。彼女の出血は子宮からの不正出血、婦人科系の疾患と思われますが、これは身体的にも社会的にも、大きな苦痛を伴う病でありました。レビ記15章にはこうかいてあります。「もし、生理期間中でないときに、何日も出血があるか、あるいはその期間を過ぎても出血がやまないならば、その期間中は汚れており、生理期間中と同じように汚れる。」ユダヤ教では、女性の出血は、生理であれ、不正出血であれ、不浄なものとして扱われてきました。生理中、不正出血中の女性が触れた物や触れた人はすべて汚れるとされていたのです。十二年間も出血の止まらなかった彼女は、「汚れた人」として社会に居場所をなくしていました。


ユダヤ人であった彼女にとって、この病は全財産を使ってでも治さなければならないものでした。しかし実際には「多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。」と書かれています。お医者さんが役に立たないということを言いたいのではなくて、人間のあらゆる手段が無駄に終わったことがここで強調されています。身体的な病を負い、宗教的に汚れた者とされ、全財産を使い果たし、助けてくれる人もいない…。女性は社会的に瀕死の立場にありました。


先ほどのヤイロ同様、この女性にとってもイエス様だけが最後の希望でした。彼女は群衆の中に紛れ込み、後ろからイエス様の服に触れます。律法違反が知られることを恐れて、彼女はこっそりとそうしたのでありましょう。女性は「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思っていました。そして、女性がイエス様に触れるとすぐに、出血が止まり、彼女は自分が癒されたことを知ります。同時にそれは、彼女がこれまでの社会的疎外から解放されたということを意味していました。


一方でイエス様も自分の中から力が出て行ったことに気づかれ、群衆の中で「わたしの服に触れたのはだれか」と言われます。女性にとっては思わぬ事態です。彼女は最後まで隠れていたかっただろうと思います。律法を破って、イエス様と周囲の人々に触れて、多くの人に「汚れを移した」ことが知られてしまうからです。しかしイエス様はそれでも触れた者を探されます。イエス様が彼女を探されたのは彼女を群衆の前で罪に定めるためではありません。そうではなくて彼女に対してまだしてあげたいことがあったからでした。


そうして女性は震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのままに話した。十二年間も出血が止まらず、その間ずっと汚れているとみなされてきたこと、治療のために全財産を使い果たしたこと、しかし病気は悪くなるばかりであったこと、イエス様の服にでも触れれば癒していただけると思ったこと…。彼女はできれば隠しておきたかったことを、イエス様と群衆の前ですべて明らかにしました。


それを聞いたイエス様は、「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」と言われます。イエス様の服に触れたことで彼女には身体的な癒しが与えられました。それに加えて、こうしてイエス様に言葉をかけていただいたことで、彼女には心の平安が与えられたのです。イエス様の服に触れた時、体が癒されて、イエス様から言葉をかけていただいて、心が癒されました。イエス様があえて彼女を探されたのは、こうして癒しを完全なものにするためであったのです。


さらにイエス様はみんなの前で「あなたの信仰があなたを救った」と彼女に語りかけます。病気を癒したのは、実際にはイエス様の力であったことは明らかです。しかしイエス様は彼女のしたことを「信仰」として認め、「娘よ」と呼んで、彼女を信仰の手本として周囲の人々に示されました。今まで汚れた者として差別され、不自由な暮らしを余儀なくされてきた彼女は、今や信仰の人として、人々の間で堂々と生きていけるようになったのです。


物語はこれで終わりません。そこに、ヤイロの娘が亡くなったという知らせが入ります。イエス様がこの出血の止まらない女性のことで足止めを食らっていたために、ヤイロの娘は手遅れになってしまいました。それはヤイロが最も恐れていた事態でありました。ヤイロの家から来た人々は「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」と言います。「もう来てくれなくていい」というのです。イエス様はこれまでたくさんの癒しの奇跡を行ってこられましたが、それらはすべて生きている人に対するものでありました。死んでしまった人のところにイエス様をお呼びしてもさすがに意味がないと、彼らはそう考えたのです。


この時ヤイロは落胆したと思います。悔しかったと思います。しかしながらイエス様はヤイロにこう言われます。「恐れることはない。ただ信じなさい」。こんな状況の中でも、イエス様は「ただ信じなさい」と呼びかけられるのです。信じているあなたのままでいなさいと言われるのです。娘が亡くなる前、必死でイエス様の足もとにひれ伏したヤイロの信仰をイエス様は見ておられました。イエス様はヤイロにその信仰を持ち続けるようにと言われます。そうしてイエス様は予定通りヤイロの家へと向かわれます。


イエス様がヤイロの家に着くと、すでに人々が大声で泣きわめいて騒いでいました。泣いて騒いで死者を悼むというのが当時の慣習であったからです。ヤイロの家の人々は、悲しいながらも娘の死を受け入れ、お葬式の準備を始めていました。そんな中イエス様は家に入り、人々に「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」と言われます。娘は死んでいないと言われるのです。人々はそんなイエス様をあざ笑います。イエス様のおっしゃっていることがばかばかしく聞こえたからです。


しかし、イエス様は娘のいる所へ入って行かれます。そして娘の手を取り「タリタ、クム」と言われました。これは、「少女よ、起きなさい」というごく普通の言葉であって、何かの呪文ではありません。少女は呪文によるおまじないで生き返ったのではなく、神の子の呼びかけによって生き返ったのです。イエス様が声をかけると、少女はすぐに起き上がって、歩きだしました。少女が歩き出したことで、周りにいた人々はこの奇跡を認め、驚きのあまり我を忘れたとあります。そして、この女の子が十二歳になっていたことがここで明かされます。十二年というのは先ほどの女性が病に苦しんできた期間とまったく同じ年月でありました。


これが今日の福音書の物語です。今日の聖書で、イエス様は病気の女性を癒し、死んでいた少女を生き返らせます。彼女たちは十二年という年月を、ほとんど死んだように過ごしました。一人は病に苦しみ社会的に死んだものとされ、一人は闘病の末に文字通り死を迎えます。イエス様はどちらの女性も救われます。全能の力をふるって彼女たちを救い、社会的な交わりの中に戻してくださったのです。イエス様の絶大な力がここで明かされています。


もう一つ、今日の聖書が明らかにするのは、信仰というものの偉大さです。イエス様は出血の止まらない女性に対して「あなたの信仰があなたを救った」と言われ、娘を亡くしたヤイロに対して「ただ信じなさい」と言われます。信仰こそが力であるとイエス様はすべての人に語られるのです。


もちろん今日の物語で描かれているのは聖書に名前が残っているくらいの「伝説的信仰者」の姿ですから、私たちがそれを真似するのは難しいことでしょう。でもそれでいいのです。聖書が言いたいのは「あなたたちもこうならなければいけない」「あなたたちの信仰は彼らに比べて足りない」ということではありません。そうではなくて「あなたたちも彼らと同じものを信じている」「教会は彼らの信仰を受け継いでいる」ということです。


聖書の中の偉大な信仰者の姿は、私たちの信仰を測る物差しではありません。私たちの外側にあって、そこに到達しなさいと命じられているようなものではないのです。そうではなくて、それは私たちのむしろ内側にあって、私たちに語りかけ、私たちの信仰を深いところで呼び起こしてくれる力です。信仰の大先輩たちの姿は、信仰というものが持つ奥深い力に私たちの目を向けさせ、私たちのうちに眠っている敬虔な気持ちを呼び起こしてくれます。私たちはただそれを受け取るようにと招かれているのです。


合同礼拝第一回目の日課は「ヤイロの娘とイエスの服に触れる女」の話でありました。今日共に集ってこの物語を聞いたことが、四教会を結びつける力となっていくことを願っています。この日、あらためて信仰の力を思い、「信じなさい」と呼びかけられるイエス様に共に従ってまいりたいと思います。


 

6月30日 教会の祈り

 

司)祈りましょう。

 

全能の神様。今日は北九州地区合同礼拝です。4月からの新体制のもと、4教会が集って礼拝する機会が与えられたことに感謝いたします。私たちをあなたの御前に一つにしてください。共に捧げる祈りと賛美が私たちを結びつけるものとなりますように。


恵みの神様。四教会一牧師体制の開始から3か月が経ちました。新体制に伴い、色々と大変なこと、思い通りにならないこともありました。そのような中にあっても、私たちが互いの労をねぎらい、いたわりあって教会を運営していくことができますように。それぞれに歴史も文化も違う四つの教会が、あなたにあって支え合い、共に歩んで行くことができますように祈ります。


慈しみの神様。社会福祉法人光の子会のために祈ります。光の子会の利用者のみなさん、職員のみなさん、そして組織を支えるルーテル教会を顧みて、祝福してください。光の子会の営みを通して、ますます主の栄光が証しされますように。

 

私たちの主イエス・キリストによって祈ります。

会)アーメン

 

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