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互いに愛し合いなさい

2024年5月4日・5日 復活節第六主日


福音書  ヨハネ 15: 9~17 (新198)

15:9父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。 10わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。

11これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。 12わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。 13友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。 14わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。 15もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。 16あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。 17互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」


先週に引き続き、ヨハネ福音書のイエス様のお話を聞いていきます。先週私たちは「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」というイエス様のお話を聞きました。イエス様はぶどうの木のように、枝である私たちを養い、命を与えてくださいます。そんなイエス様につながっていなさい、というのが先週語られた教えでした。今週の聖書の言葉はその続きにあたります。


今日の聖書では、イエス様が弟子たちに「わたしの愛にとどまりなさい」ということを言われています。先週語られた「わたしにつながっていなさい」という教えに重ねて、イエス様は「わたしの愛にとどまりなさい」と教えられているのです。新共同訳で「とどまる」と訳されているメイナーテというギリシア語は、「残る」という意味も持っています。今私たちはすでにイエス様の愛の中にいるので、その状態にとどまる、このままここに残る、ということが促されているのです。


もっと具体的に言えば、イエス様の愛にとどまるとは、すなわちイエス様の掟を守ることを意味しています。今日の第二朗読である第一ヨハネ5章にはこうあります。「神を愛するとは、神の掟を守ることです。神の掟は難しいものではありません。神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。」と書かれています。神を愛するとは、神の掟を守ることであり、掟を守るとは、すなわち信仰を持ち続けることです。しかし聖書によればそれは難しいことではありません。信じる者には初めから神の助けと勝利が約束されているからです。私たちはただ、神様の助けによって、信仰を持ち続け掟を守り、そうやって愛にとどまっているのです。


このようにイエス様は「わたしの愛にとどまりなさい」と教えられました。その上でイエス様はさらに「互いに愛し合いなさい」と言われます。「互いに愛し合うこと」はとても大切なこと、イエス様による「新しい戒め」「新しい律法」であり、私たちがイエス様の弟子であることを示すしるしです。


しかしこれは単なる博愛主義や自己犠牲の奨励ではありません。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」と言う時の「わたしがあなたがたを愛したように」という部分が大切であるということをきっとみなさんも聞いたことがあるのではないでしょうか。確かに私たちは互いに愛し合わなければなりません。しかしそれが可能であるのは、私たちがすでにイエス様から愛をいただいているからです。私たちに求められているのは、無い所から無理やり愛をひねり出すことではありません。そうではなくて、「神に愛された者として人を愛する」ことが私たちのつとめであるのです。神様の愛をよく知り、それによって自然と自分も人を愛するようになるということがイエス様のおっしゃる愛なのです。


さらにイエス様は、私たちが互いに愛し合うならば「あなたがたはわたしの友である」と言われます。その時イエス様は私たちを友と呼んでくださるというのです。友というのは、何も知らない僕とは違います。僕は主人の意志も行為も知らず、ただ命令に従うことしかできません。


しかしあなたがたはそうではない、とイエス様は言われます。イエス様が教えてくださったことを通して、私たちは神を知っているからです。私たちは神様がどういうお方であるか、何をなさってくださっているのかを知り、命令だから仕方なくではなくて、真心から神に従うことができるからです。


しかし同時に、イエス様と私たちは決して対等の関係にはありません。16節では「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」ということがはっきりと語られています。私たちがイエス様に友と呼んでいただけるのは、私たちがイエス様と同じくらい優れているからではありません。そうではなくて、イエス様が選んでくださったから、イエス様が顧みてくださったから、私たちはこうしてイエス様との良い関係の中に入れられているのです。神と人間との関係を主導するのは、常に神ご自身です。


私たちを選び、私たちを友と呼んでくださるイエス様は、愛にあふれたお方です。そのイエス様は私たちに「互いに愛し合いなさい」と命じておられます。これは私たちにとってとても大切な教えです。もちろんだからといって、毎日毎日愛にあふれて24時間人に優しくできるわけではありません。でも、こうしてみ言葉を聞いて、イエス様が私たちに望んでおられることを思い出し、また私たちがイエス様の愛のうちにいることを思い出すことで、私たち信仰者のうちには不思議な力が湧いてくるのではないでしょうか。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。」このイエス様の教えを改めて胸に刻みたいと思います。


 

5月4日・5日 教会の祈り

 

司)祈りましょう。

 

全能の神様。憲法記念日をおぼえて祈ります。平和を尊び、信教の自由を認めるこの国の憲法が尊重されますように。戦争や政治的圧力によって平和、人権、信仰が取り上げられることがないように、私たちを力づけてください。平和と人権のために真剣に祈り、責任をもって行動することができますように。

 

恵みの神様。こどもの日をおぼえて祈ります。子どもたちがあなたによって守られ、健やかに成長することができますように。この世の中には、貧困、虐待、いじめ、病気、その他様々なことで苦しんでいる子どもたちがたくさんいます。そのような苦しみに私たちが気づき、手を差し伸べることができますように。

 

慈しみの神様。5月7日から八幡教会の解体工事が始まります。工事に携わってくださるみなさんの安全をあなたがどうぞお守りください。これまでの牧師館での様々な思い出を感謝します。新たな牧師館の完成まで、八幡教会を導き支えてください。

 

私たちの主イエス・キリストによって祈ります。

会)アーメン

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