主が来られる
2024年11月30日・12月1日 待降節第一主日
福音書 ルカ21:25~36 (新152)
21:25「それから、太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。 26人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。 27そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。 28このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。」
29それから、イエスはたとえを話された。「いちじくの木や、ほかのすべての木を見なさい。 30葉が出始めると、それを見て、既に夏の近づいたことがおのずと分かる。 31それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、神の国が近づいていると悟りなさい。 32はっきり言っておく。すべてのことが起こるまでは、この時代は決して滅びない。 33天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」
34「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。 35その日は、地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかるからである。 36しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。」
今日は待降節第一主日です。いよいよ教会の新しい一年が始まりました。今年はC年にあたりますので、ルカ福音書を読んでいくことになります。今日の聖書の箇所はルカ福音書の21章です。待降節のはじめにあたって、主の終末的来臨、つまり再臨について記した聖書の箇所が選ばれています。やがて終末が来るというメッセージで聖霊降臨後の期節が締めくくられ、そして主が来られるというメッセージで待降節が幕を開けるのです。
今日の聖書の物語はイエス様が終末のしるしについて語られるところから始まります。神殿の崩壊を予告され、エルサレム滅亡を予告されたイエス様は、弟子たちに対して「それから、太陽と月と星に徴(しるし)が現れる。」と言われます。古代世界においては太陽、月、惑星の配置が地上の重要な出来事を反映していると考えられていて、特に太陽、月、星に関する異変は不吉なことの前兆とされていました。
さらにイエス様は「地上では海がどよめき荒れ狂う」とも言われます。終末に際して、いわば被造物全体が無秩序状態に陥るというのです。大変な未来が予告されています。そんなことが起これば、当然人々は恐れます。「人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう」とあるように、この世が極度の不安、恐れ、パニック状態を経験する日が来るだろうと言われているのです。
しかしそのような混乱は決して絶望では終わりません。「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。」とイエス様は言われます。「人の子」とはイエス様ご自身のことです。終末が訪れ、人々が不安と恐怖におびえる時、イエス様が神の栄光と力とを持って再び来てくださるということが言われています。十字架で死に、復活して天に上られたイエス様は、来るべき日に再臨され、すべての民を治めるようになるということが約束されているのです。
そしてイエス様は「このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。」と言われます。イエス様を信じる人にとって、終末は単なる終わりの時ではありません。その時にこそ神の支配は完成し、神の民はあらゆる苦しみから解放され、私たちとってのさらなる喜びの時が始まるのです。確かに今日の聖書の箇所では、恐怖や不安が一時的に人々を支配するということが言われています。しかしそれ以上に、それにうろたえることなく、その先にある解放の時、喜びの時を待ちなさいということが語られているのです。
イエス様はさらに、いちじくの木のたとえを用いて、そのことが起こる時期について教えられます。いちじくの木が初夏になれば必ず葉を伸ばすように、それは確実に訪れるというのです。神の国は必ずやって来ます。それは毎年夏がやって来るのと同じくらい確かなことです。そしてイエス様が語られた天変地異の数々は、確かに恐ろしいものですが、しかしこれ以上ないくらいわかりやすいしるしです。その時が来れば、弟子たちは主が来られることを間違いなく悟ることができます。その時は必ず来る、事前にわかりやすいしるしを送る。だから安心して待っていなさいとイエス様は言われるのです。
続いてイエス様はその待つ時間をどのように過ごしたらよいかということについても教えられます。まずイエス様は「放縦(ほうじゅう)や深酒や生活の煩(わずら)いで、心が鈍くならないように注意しなさい。」と言われます。終わりの時が来るからと言って、自暴自棄になったり、自分勝手な生活をしたりすることはイエス様の望んでおられることではありません。弟子たちはやがてやって来るその日を慎み深く、真剣に待たなければならないのです。そうでなければ、終末のしるしを見たときにうろたえてしまいます。
イエス様はまた「その日は、地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかるからである。」とも言われます。終末は平等に訪れ、ユダヤ人であっても、異邦人であっても、その日にはすべての人が揺り動かされるであろうということが語られているのです。その時に信仰を保ち自分を保っていられるかは、ただイエス様の予告を信じ、イエス様の言葉に従って生活しているかということにかかっています。
イエス様はこのお話を「あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。」と言って締めくくられました。とてもシンプルな教えです。来たるべき時に備え、落ち着いてその時を待つことの基本は、日々の祈りにあるということが言われています。いざという時に信仰を失わないように、日頃から神様に目を向けて、イエス様のおっしゃったことを思い起こし、祈りをもって過ごすことが、やがて起こる大いなる出来事に対する備えとなるのです。
こうしてイエス様は私たちに「待つ」ということを教えられました。私たちは今日からイエス様のお生まれを「待つ」期節に入りましたが、イエス様のお生まれを待つのも、終末を待つのも、基本的には同じことです。終末と待降はいくつかの点で非常によく似ています。
まず重要なことは、神様によって約束され、私たちが待っているものは確実にやってくるということです。私たちにとって終末はいつ来るのかわからないものです。同じように、イエス様以前に生きていた人にとっては救い主がいつ生まれるかということは全く予想がつかないことでした。しかし信仰者というのは、今来ていないからといって神様の約束を軽視しないように、どんな時も固く信じて待つようにと繰り返し教えられています。確信して待つということが大切なのです。
二つ目の重要な点は、確実にやって来るその時に対して、神様は明確なしるしを用意してくださっているということです。終末に対しては天変地異がしるしとなるように、主のお生まれに対しては洗礼者ヨハネが、待つ者に対してその到来を知らせるしるしとなりました。そのしるしを神様からのメッセージとして受け取り、その先にやって来るものを私たちは待ち望むのです。
最後の重要な点として、神は「待つ」ものを平等に裁くということが言われています。終末やみ子の到来に際しては、イスラエルの民のみが特別に扱われるということはもはやありません。終末も、イエス様のお生まれも、すべての人に平等に訪れます。そのことを即座に喜べるかどうかは、その人の生まれ育ちではなく、その人が神様のみ言葉を信じているかということのみにかかっているのです。
ですから、私たちはこの「待つ」という行為に対して真剣でいなければなりません。今なおいつやってくるかわからない終末を待つように、あるいはかつてイスラエルの人々が救い主を待ち望んだように、私たちもまたイエス様のお生まれを待つようにと聖書は語っています。そしてまた、今日の聖書の物語の中で、イエス様は「いつも目を覚まして祈りなさい」「祈りつつ待ちなさい」と言われました。私たちが聖なるものを待つ時には、いつも祈りが共にあります。イエス様のお生まれを待つこの期節を、ご一緒に祈りつつ過ごしてまいりましょう。
11月30日・12月1日 教会の祈り
司)祈りましょう。
全能の神様。社会福祉法人光の子会のために祈ります。光の子会の利用者のみなさん、職員のみなさん、そして組織を支えるルーテル教会を顧みて、祝福してください。光の子会の営みを通して、ますます主の栄光が証しされますように。
恵みの神様。北九州地区の各教会はクリスマスに向けて準備の時を過ごしています。飾りつけやクリスマスカード作成といった各教会の奉仕活動をどうぞお守りください。心を合わせて共にイエス様のお生まれを待つ私たちの上に、あなたの恵みを増し加えてください。
慈しみの神様。イエス様は私たちに、待つことの大切さを教えられました。私たちが神様の約束を確信し、日々祈りながらイエス様のお生まれを待つことができますように。あなたの送ってくださるしるしに目を向け、御心を悟ることができますように祈ります。
私たちの主イエス・キリストによって祈ります。
会)アーメン
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