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三位一体の神

2021年5月30日 三位一体

ヨハネによる福音書3章1節~17節


福音書  ヨハネ 3: 1~17 (新167)

3:1さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。 2ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」 3イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」 4ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」 5イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。 6肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。 7『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。 8風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」 9するとニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言った。 10イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。 11はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。 12わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。 13天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。 14そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。 15それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。

16神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。 17神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。


今日は三位一体主日です。三位一体主日は聖霊降臨(ペンテコステ)の次の日曜日に祝われる主日で、10世紀頃に導入された比較的新しい祝祭日です。他の祝祭日とは異なり、出来事や人物を記念するのではなく、三位一体という神学的な教義を表現する祝祭日となっています。三位一体は4世紀のニカイア公会議で確定したキリスト教の教理で、「三つであり一つ」「区別されるが分かたれることはない」神の在り様を指すものです。父なる神は神であり、子なるキリストは神であり、聖霊なる神は神であり、なおかつ神は唯一である、という理解に基づいて、人間の目には区別があるように見えながらも、分かたれることなく一致して働かれる神の姿を表現しています。三位一体とは何かということについては昨年の三位一体主日にお話しましたので、今日は福音書の内容を見ていこうと思います。


先ほどお読みしたヨハネ福音書3章はニコデモという人物がイエス様のもとを訪ねて来るところから始まります。イエス様はカナで最初の奇跡を行われた後、エルサレムに行かれ、過越し祭の間そこに留まられました。ニコデモはある夜、エルサレム滞在中のイエス様のもとを訪ねます。ニコデモはファリサイ派に属する者でユダヤ人たちの議員、また「イスラエルの教師」(ユダヤ教の神学教師)でありました。そんなニコデモはイエス様のことを「ラビ」(先生)と呼び、イエス様が「神のもとから来られた教師」であると語ります。彼がそう確信したのは、イエス様の行う奇蹟を見た(あるいは聞いた)からです。奇跡を行うことができるのは神のもとから来られた方、神が共におられる方のみであると、ニコデモは信じていました。


そんなニコデモに対してイエス様は「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」と言われます。生まれ変わって新たに霊によって生まれる者だけが、神の国を見ることができると言われるのです。ニコデモはイエス様の奇跡をほめたたえましたが、しかしその本当の意味を知りません。イエス様が奇跡を行われるのは、イエス様が神の子であるからです。天上の父と地上の子とが分かちがたく一体となって働かれているからこそ、イエス様の行うさまざまな奇蹟が可能になります。その真理を、ニコデモはこれから霊の働きによって悟る必要があるのです。


イエス様はさらに「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」と言われます。人が神の国に入るために必要なのは、水によって新しく生まれるという肉体的経験と、霊によって新しく生まれるという霊的経験の両方であるということが明らかになります。その両方があわさったのが洗礼というサクラメントです。神の導きのもと、水と霊とによって生まれることにより、人はつくり変えられ、神の国に招き入れられるようになります。洗礼を受けた私たちにはその実感がないかもしれません。それは、霊による新生が肉による新生とまったく異なっているからです。霊による新生は人間がコントロールすることの出来ないものであり、人間の理解を超えるものです。しかし「水と霊とによって新たに生まれる」というこの神秘を通らなければ、人は神の国を見ることができません。


ニコデモはここまで聞いたことに対し「どうして、そんなことがありえましょうか」と答えます。彼は途方に暮れている様子です。そんなニコデモにイエス様は「あなたはイスラエルの教師でありながら、これぐらいのことがわからないのか。」と言われます。あなたがユダヤ教の神学者であるなら、私の言ったことの意味をいくらかでも理解してしかるべきであると言われるのです。確かに、神の霊が人をつくり変えるという概念は決して目新しいものではありません。旧約聖書には、神が新しい霊を与え、人に新しい心を与えるという記述が何か所かみられます。例えばエゼキエル書36章には「わたしは新しい心をあなたがたに与え、新しい霊をあなたがたの内に授け…わが霊をあなたがたのうちに置いて、わが定めに歩ませ、わがおきてを守ってこれを行わせる。」と書かれています。人が神様の御心に従って生きるためには、神の送ってくださる霊が必要であると考えられてきたのです。


ここまで語られたイエス様は教えることをやめ、ただ信じるようにと呼びかけます。イエス様は「わたしたちは知っていることを語り、見たことを証しして」いる、つまりイエス様の証言は明らかに神から出たものであると語られます。どんなに世の中に理解されないとしても、イエス様のみが神を真に啓示されるお方です。それはイエス様が神のひとり子であって、天上から地上へとくだり、また天上へ帰って行くことのできる唯一のお方であるからです。そのことを霊の働きによって悟るという体験、父・子・聖霊の神秘的な働きにニコデモは、そして私たちは招かれています。


「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」とイエス様は語られます。私たちが救われるために、イエス様は世に来られました。そして聖書は、イエス様がその救済のわざをお一人でされたのではないと語ります。イエス様を遣わしてくださった父なる神様、私たちのために世に来られた子なる神様、そして私たちを新しく生まれさせ、真理を悟らせてくださる聖霊なる神様。三つで一つ、三位一体の神さまです。ニコデモがそうであったように、私たちはこの難解な神の在り方の前に戸惑います。しかしそれでも、神様は私たちに聖霊を送って、私たちが神様から離れることがないように助けてくださっています。そのことを今日のイエス様の言葉から信じたいと思います。父・子・聖霊の神に栄光がありますように。

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