七滝の小さな男
2023年8月13日 平和主日
ヨハネによる福音書15章9~12節
福音書 ヨハネ 15: 9~12 (新198)
15:9父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。 10わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。
11これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。 12わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。
今年も平和主日がやって来ました。平和主日は教会全体で平和を祈る日です。昨年は『小倉メモリアルクロスの記憶』という本をご紹介しましたが、今年はリアム・ノーランという人が書いた『七滝の小さな男』という本をご紹介しようと思います。渡辺潔という日本のルーテル教会の牧師が、アジア・太平洋戦争のさなかで日本軍の通訳として香港で働いていた際に、危険を冒して敵の命を助けたというお話です。
物語の主人公である渡辺潔牧師は熊本の七滝村(現在の上益城(かみましき)郡御船(みふね)町)の出身です。潔少年は仏教徒の家に生まれましたが、京都大学の医学部で学んでいたお兄さんに聖書をもらったことをきっかけに、キリスト教に興味を持つようになります。しかし七滝村には教会がありませんでしたから、彼が教会に通うようになるのはずっと後のことです。
潔少年のお兄さんはなんとか大学に行っていましたが、渡辺家は特に裕福というわけではなく、お兄さんの学費で破産寸前だったそうです。そのため潔少年は七滝村の学校を卒業すると、すぐに仕事を求めて熊本市内に出ます。市内の病院で働き口をみつけた潔少年は、同じく熊本市内にいた山内直丸牧師に出会い、教会に通うようになりました。(山内直丸牧師はルーテル教会で最初の日本人牧師であり小倉教会を開いた牧師でもあります。)これが潔少年とルーテル教会との出会いでした。同時に潔少年はスタイワルト宣教師のもとで聖書と英語を習うようになりました。こうして1909年、潔少年は水道町のルーテル教会で洗礼を受けます。
その後牧師になることを志した渡辺氏はお兄さんの援助を受けて九州学院の神学部で学び、1915年、25歳の時に神学部を卒業します。牧師になった渡辺氏は大牟田ルーテル教会、唐津ルーテル教会、佐賀ルーテル教会、そして広島のルーテル教会で働きました。その後アメリカに住んでいた妹さんの誘いでアメリカに留学し、2年間ゲティスバーグの神学校で学びます。渡辺牧師は2年間神学の学びに打ち込み、たくさんのお土産を抱えて日本に帰国しました。
しかし帰国した渡辺牧師を待っていたのは戦争でした。1937年、渡辺牧師が帰国したころの日本は、出発前の平和だった世相と異なり、町中に兵隊が闊歩し軍用トラックが走り抜けるようになっていました。日増しに日本は戦争に近づき、教会も政府の強制管理下に置かれるようになり、広島の教会も閉鎖されることになりました。そして1941年、渡辺牧師は九州女学院に移り、教師として女子学生たちに英語を教えることになりました。当時は九州女学院でも行進の訓練があったと本には記されています。
そのような情勢の中、渡辺牧師の二人の息子たちは軍隊に召集されていきました。そしてついに渡辺牧師にも召集の知らせが届きます。当時52歳、年を取っていたので兵隊としての召集ではありませんでしたが、留学経験があり語学に堪能な渡辺牧師を軍部所属の民間通訳として任ずるという知らせでした。そうして渡辺牧師は香港のサンシュイポ収容所というところに通訳として赴くことになりました。
サンシュイポ収容所は日本が香港を占領した後、先にそこを統治していたイギリス軍の捕虜たちを収容した場所でした。勤務初日、初めて捕虜たちの姿を目にした渡辺牧師は気が遠くなりかけたといいます。収容所で虐待された何千人もの捕虜たちはボロボロの服をまとい、がりがりに痩せて、悪臭を発しながら力なく歩いていたのです。その後取り調べの通訳を任された渡辺牧師はイギリス人捕虜がひどい拷問を受けるのを目の前にしてさらにショックを受けます。渡辺牧師は部屋を飛び出し、トイレに鍵をかけて閉じこもり「ああ神よ!これが人間のやることなのでしょうか!これが戦争で人間がやることなのですか」と神に訴えたと書かれています。
そして渡辺牧師はそのままひざまずいて祈りました。すると祈りが渡辺牧師に不思議な力を与えてくれました。本にはこう書かれています。「彼は、締め切った便所の悪臭のたちこめる中で、ひざまずいて祈った。やがて、少し落ち着いた。さっき目撃した恐ろしい光景に打ち勝てなかった自分の信仰のもろさ、弱さを知り、神に勇気と信仰を与え給わんことを祈った。そしてこれからの自分は、もう、たった一人ではなく、神がいつも共におられるのだという確信にいたるまで、すべての心の痛手を神に打ちあけた。さっきあんなにひどい衝動に打ちのめされたのは、自分の信仰の弱さのせいだ、と彼は思った。神は、常に自分を導き給うお方である。たとえ自分一人では弱く、取るに値しないものでも、神が私と共にあって神の御心のままに、私をお用いなさるのなら、神は必ず私に力と勇気を与え給い、最後まで守っていてくださるであろう。自分は神のための道具となって仕えよう。潔は、すっかり心の静けさを取り戻した。」(43頁)
この祈りを実行するため、渡辺牧師は神のための道具として、収容所に囚われている人々にも温かく接しました。差し入れはできるだけ没収せず、手紙もこっそり届けました。日本人の同僚が彼らに対してするような、暴力的で威圧的な態度を決して取りませんでした。ある時彼は、収容所に赤痢とジフテリアが蔓延していることに気付きます。捕虜たちには医薬品があてがわれなかったので、たくさんの人が死んでいきました。そこで渡辺牧師は外部に協力者を得て、ひそかに薬品や血清を収容所に運び込むことにします。見つかったら死刑になるような、命がけの行動でした。大きなカバンにたくさんの医薬品を入れて、番兵の目を盗んで、収容所内の外国人医師に届けることを繰り返したそうです。医薬品がいきわたってきた頃、渡辺牧師はボウエンロードの野戦病院に送られることになります。渡辺牧師は捕虜たちに親切にしているのを怪しまれ、同僚から苦情がでていたからです。この頃彼には常に監視がつけられていました。
ボウエンロードの野戦病院はサンシュイポ収容所に比べればいくらか穏やかな場所で、病院の患者のほとんどはイギリス人の将校でした。渡辺牧師は積極的に彼らの病室を見舞い、様子を尋ねました。当時そんなことをする日本人はいなかったので、最初は怪しまれ、全員から無視されていたといいます。しかし渡辺牧師は毎日お見舞いにやって来て、無視されても乱暴な言葉を投げかけられても穏やかでいました。さらに彼がクリスチャンであることを明かしたことで、患者たちは次第に態度を和らげ、渡辺牧師に親しむようになりました。しかしそこでも敵国人と親しくしていることをとがめられ、今度はスタンリー抑留収容所に移されることになりました。
スタンリー抑留収容所は外国人の民間人を抑留する施設で、そこではついこの間までは銀行家、弁護士、警察官、貿易商などをしていた一般市民の人々が抑留され、十分な食料も与えられないまま収容されていました。そんなスタンリー抑留収容所に移されてまもなく、渡辺牧師は軍司令本部に呼び出されます。最初の任地であったサンシュイポ収容所で、隠れて医薬品を運搬していたことが明るみに出たのです。渡辺牧師は死刑を宣告されて、軍を追放されました。
しかし渡辺牧師は生きて日本に帰ります。戦争が終わったからです。群を追放された直後、渡辺牧師はラジオを通して広島に原爆が投下されたことを知りました。渡辺家は六人家族で、妻は広島市鷹匠に、娘たちはそれぞれ広島市向洋、呉、熊本に、そして二人の息子は軍隊にいました。家族の消息がつかめないまま8月15日を迎え、その日渡辺牧師は日本が戦争に負けたことを知りました。その時「潔は泣いた」(117頁)と書かれています。後日受け取った手紙で、彼は妻と熊本にいたはずの娘が原爆で亡くなったことを知りました。(広島にいた二人の娘は助かって、たまたま熊本から広島の母親のもとを訪ねていいた娘が原爆で亡くなったそうです。)
こうして戦争は大きな傷跡を残して終わり、渡辺牧師は教会での働きに戻っていきました。香港にいる間、渡辺牧師は隠れて医薬品を運ぶという危険な行為を通して、また日々の任務を通して、信仰を貫き隣人愛を実践したと言うことができましょう。戦後、BBC(英国放送協会)の取材により渡辺牧師の戦時中の活動が明らかになり、彼の物語は一冊の本にまとめられました。それがこの「七滝の小さな男」という本です。
最後に渡辺牧師の言葉を紹介します。1944年、戦時下の香港で子どものためのクリスマス礼拝に出席した渡辺牧師はこう語ったそうです。「世界じゅうのすべての大人も老人も青年も子どもも、肌の色、種族の別に関係なく、皆、神の前で等しく結ばれるべきです。」この渡辺牧師の言葉を受け取って、今日私たちは皆で平和を祈りたいと思います。
リアム・ノーラン著、佐久原冴子訳『七滝の小さな男』(慈愛園あしながおじさんの会、2001年)
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