パンの奇跡
2021年7月25日 聖霊降臨後第9主日
ヨハネによる福音書6章1~21節
福音書 ヨハネ 6: 1~21 (新174)
6: 1その後、イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた。 2大勢の群衆が後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである。 3イエスは山に登り、弟子たちと一緒にそこにお座りになった。 4ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた。 5イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われたが、 6こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである。 7フィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えた。 8弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。 9「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」 10イエスは、「人々を座らせなさい」と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。 11さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。 12人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。 13集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。 14そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言った。 15イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。
16夕方になったので、弟子たちは湖畔へ下りて行った。 17そして、舟に乗り、湖の向こう岸のカファルナウムに行こうとした。既に暗くなっていたが、イエスはまだ彼らのところには来ておられなかった。 18強い風が吹いて、湖は荒れ始めた。 19二十五ないし三十スタディオンばかり漕ぎ出したころ、イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て、彼らは恐れた。 20イエスは言われた。「わたしだ。恐れることはない。」 21そこで、彼らはイエスを舟に迎え入れようとした。すると間もなく、舟は目指す地に着いた。
先週までマルコ福音書を読み進めていましたが、今日からしばらく日課はヨハネ福音書に移ります。今日の聖書の物語は、イエス様が舟に乗って湖を渡られるところから始まります。5章の冒頭を見ると、イエス様はガリラヤ湖西岸に位置するベトサイダというところにおられたことがわかります。そこから湖を渡って、ガリラヤ湖の東側に行かれたのでしょう。そんなイエス様の後を大勢の群衆が追いかけました。イエス様が病人たちになさったしるしを見たからです。ここまでにイエス様はガリラヤとベトサイダで病人を癒されたということが記されていますし、2章23節には「イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。」と書かれています。イエス様が行われたしるし(奇跡行為)を見て、人々はイエス様を信じ、期待を持って後を追ったのでした。
イエスは群衆に先立って山に登り、弟子たちと一緒にそこに座られます。そしてイエス様は目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのをご覧になり、弟子のフィリポに「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と問いかけられました。他の福音書はこの場面について、群衆がイエス様の教えを長時間にわたって聞いていたこと、それによって食事の時間になってしまったこと、しかし人里離れた所で買い物ができないこと、などさまざまな状況を述べていましたが、ヨハネ福音書にはそのような説明がありません。イエス様は必要に迫られてというよりはむしろ、初めから奇跡を行うことを意図されていたかのようです。
イエス様の質問は、ちょっと難しすぎる気もします。そもそも「どこでパンを買えばよいだろうか」と聞かれたら、ふつうは買い物する場所について一生懸命考えてしまいますよね。フィリポは「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えます。1デナリオンは労働者の一日分の給料に相当しますが、二百デナリオンでもまだ足りないというのです。集まった人々は男性だけで五千人いたと記されていますから、全員に食べさせるには相当たくさんのパンが必要です。弟子たちの所持金では到底彼らを養うことはできませんでした。そこに弟子のアンデレが加わります。アンデレは「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」と言いました。フィリポの発言に加えて、彼らの持っているものの不足が強調されています。人間の目から見れば、この状況で大勢の群衆に食べ物を与えることは不可能でありました。
聖書には、イエス様がこの質問をされたのはフィリポを試みるためであったと書かれています。試みるというのは何のことだろうかと考えたときに、ある聖書の箇所がヒントになります。同じヨハネ福音書の4章において、イエス様と弟子たちはこんなやりとりをしていました。「弟子たちが『ラビ、食事をどうぞ』と勧めると、イエスは、『わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある』と言われた。弟子たちは、『だれかが食べ物を持って来たのだろうか』と互いに言った。イエスは言われた。『わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである・・・」この時点でイエス様は「食べ物」という言葉に物質以上の意味を与えていることがわかります。しかし弟子たちはその真意を理解することができず、「だれかが食べ物をもってきたのだろうか」と言っていたわけです。
戸惑う弟子たちに命じて、イエス様は人々を草の上に座らせます。4節にはこの時過越祭が近づいていたと書かれています。過越祭はイスラエルの歴史における出エジプトの出来事を記念するものでした。そして過越祭は春のお祭りでしたから、山には草がたくさん生えていました。イエス様はユダヤの風習に従って感謝の祈りを口にし、パンと魚を人々に分け与えられます。パンが増えたとはどこにも書かれていないのですが、そう考えていいでしょう。過越祭の季節にこの奇跡が行われたということは、出エジプトにおけるマナの奇跡を想起させます。出エジプト記16章に「主はモーセに言われた。『見よ、わたしはあなたたちのために、天からパンを降らせる。民は出て行って、毎日必要な分だけ集める。わたしは、彼らがわたしの指示どおりにするかどうかを試す。・・・」とある通り、かつてイスラエルの民が荒れ野で飢えた時、神は「天からのパン」を降らせて人々を養われました。同様にイエス様は人々を「天からのパン」で養われます。それは同時にただの大麦でできたパンでありましたが、人が買ったものでも作ったものでもない、奇跡のパンでありました。人々はかつて神の恵みがあったことを過越祭を通して記念していましたが、今も神の恵みが働いていることをイエス様を通して知るようになったのです。
そうして人々は欲しいだけ食べて満腹しました。食事の後、イエス様は弟子たちにパン屑を集めるように指示されます。食べ残しを集めるのがユダヤの食卓の風習だったからです。その結果、パン屑だけで十二の籠がいっぱいになったとあります。このことは供食の規模の大きさを物語っています。
人々はこの奇跡を目の当たりにして「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言いました。世にきたるべき預言者というのは、申命記18章で語られているモーセのような預言者という意味でしょう。あるいは第一の日課に選ばれているエリシャのエピソードを思い出したかもしれません。いずれにせよ、しるし(奇跡)は人々に信仰を与えますが、それは同時に限られた信仰でもありました。3章で「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」と語ったニコデモがイエス様の本質を理解できていなかったように、この時の群衆もまた、イエス様がどなたであるかを理解せず、自分たちの期待にイエス様を当てはめていました。そして人々の期待とは、イエス様を王にすることでありました。イエス様を地上の権力の座に据えて、もっと自分たちの生活をよくしてもらおうと思っていたのです。しかしイエス様はそのような要求から身を引かれ、山へと引き返して行かれます。
続いて湖でのエピソードが語られます。夕方、弟子たちは舟に乗って移動しようと湖畔に下りていきます。彼らの行く先はカファルナウムです。この時点でイエス様はまだ山におられたようで、弟子たちのところには来ておられませんでした。すでに暗くなっていたところ、強い風が吹いて、湖が荒れ始めたと書かれています。そんな中で、弟子たちはイエス様を後に残して二十五ないし三十スタディオン漕ぎ出しました。これはおおよそ4.5㎞~5㎞にあたり、ガリラヤ湖の東西は13㎞なので、だいだい湖を半分手前まで渡ったところと推測することができます。そこにイエス様が湖の上を歩いて近づいてこられました。弟子たちは恐れます。暗闇、強風、荒天という要素が揃っている上に、人が水の上を歩いている姿を目撃したからです。
そんな弟子たちに対してイエス様は「わたしだ。恐れることはない。」と声をかけられます。「恐れるな」という言葉は神が旧約聖書で自分を啓示される時に度々口にされる言葉です。父なる神はアブラハムに、ヤコブに、そしてイスラエル全体に対して「恐れるな」という言葉と共に自らを顕わされました。同様に、弟子たちに対して「恐れるな」と語られるイエス様もまた神です。群衆に「預言者」と呼ばれ、この世的な意味での「王」になることを期待されていたイエス様は、ここでご自分が「子なる神」であることをお示しになられたのでした。
そうして弟子たちはイエス様を舟に迎え入れます。自らを啓示されるイエス様とそれを受け入れる弟子たちが描き出されています。イエス様が舟に乗り込まれると間もなく、舟は目的地に到着しました。19章で舟が湖の半分手前までしか来ていなかったことを考えれば、これも一つの奇跡に数えることができるかもしれません。パンの奇跡に続く、不思議な出来事でした。
今日の聖書の物語で、イエス様はパンと魚をもって大勢の人々を養われました。それは人が買ったものでも作ったものでもない、奇跡のパンでありました。父なる神が荒れ野でイスラエルの民を養ったように、子なる神であるイエス様も人々を養われます。それでも群衆はイエス様がどなたであるかを完全に理解することができず、イエス様が預言者や王であることを期待しました。しかしイエス様は水の上を歩かれ、「恐れるな」と呼びかけて、再びご自分が神であることをお示しになりました。今日語られた奇跡はいずれも、イエス様がまことの神であることを物語っています。今日のお話は続く「天からのパン」「命のパン」の説話への入り口でもあります。これらの説話を通してイエス様がどなたであるのか、何のためにこの世に来られたのかということがますます明らかになっていきます。また来週もこの続きを聞いてまいりましょう。
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