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キリストの洗礼

2024年1月7日 主の洗礼

マルコによる福音書1章4~11節


福音書  マルコ1: 4~11 (新61)

4洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。 5ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。 6ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。 7彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。 8わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」

9そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。 10水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。 11すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。


今日は主の洗礼の主日です。イエス様が洗礼を受け、宣教の働きを始められたことを記念する日です。マルコによる福音書はまさにこの主の洗礼の場面から始まります。洗礼はまた、私たちにとっても重要なものです。洗礼はキリスト教の入信儀礼に当たるものであり、私たちの多くは洗礼を受けてここに集っています。みなさんは洗礼の意味というのを考えてみたことがあるでしょうか。これは考え始めると難しくて、一言では言い表すことができません。「働く意味」や「家族の意味」が複数あるように、私たちにとって身近で重要なものほど、一つの言葉のうちにたくさんの意味を含んでいるのだと思います。


洗礼には、主なものだけでも五つの意味があると言われています。その五つとは「イエス・キリストと一体になること」「教会への統合」「新しい誕生」「罪の赦し」「聖霊を受けること」です。洗礼という儀式を通して、私たちはイエス・キリストと一つになってその死と復活にあずかり、教会共同体に受け入れられ、過去の生き方から新しく生まれ変わり、罪を赦され、賜物としての聖霊を受けます。このようにたくさんあるのですが、しかしどれも目新しい話ではないはずです。聖書にはさまざまな書き方でこれらの要素が表現されていて、私たちは繰り返しそれを聞いてきているからです。


今日の聖書の物語はイエス様が洗礼を受けられた時のことを記しています。イエス様はガリラヤのナザレから出てきて、ヨルダン川で洗礼を受けられました。ナザレはガリラヤ南部に位置する人口500人ほどの小さな村、ヨルダン川はヘルモン山からガリラヤ湖に向かって流れ込む全長約200キロメートルの長い川です。イエス様に洗礼を施したのは洗礼者ヨハネ。彼は宗教的指導者として、人々に悔い改めの洗礼を授けていたとあります。ラクダの毛衣(毛衣は預言者の服装とされていました)を身に着け、粗末なものを食べて、荒れ野で修行僧のような生活を送った人でした。


そんな洗礼者ヨハネのもとにイエス様も来られて、洗礼を受けられます。ヨハネの洗礼は悔い改めと罪の赦しのための洗礼です。イエス様は神の子ですから、罪がありません。本来悔い改めも罪の赦しも必要とされない方でした。しかしイエス様は洗礼を望まれます。そこに神様の御心が働いていたからです。イエス様が洗礼を受けられると、天が裂けて、聖霊が鳩のように降り、天から「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が聞こえました。イエス様の洗礼が確かに神様のご意思に適うものであったことがここで証しされています。


イエス様の洗礼によって、洗礼には新しい意味が加わりました。それは「聖霊を受けること」です。聖霊とは何かということを考えるにあたって、今日の第一の日課、創世記の記述を思い出したいと思います。そこには天地創造の時、「神の霊が水の面を動いていた」とあります。聖霊は私たち人間のように神様によって造られたものではありません。そうではなくて、創造のはじめから存在していた「神」そのものです。そんな神である聖霊が地上に降り、人の上に留まってくださること、それが、聖霊が降るという出来事です。私たちには自覚することが難しいのですが、聖霊を受けることによって、いつも聖霊がそばにいて働いてくださるということが約束されます。


イエス様の洗礼によって、聖霊による洗礼の時代が始まりました。私たちの受けた洗礼も、この洗礼にさかのぼるものです。ヨハネが授けていた洗礼は悔い改めと罪の赦しのためのものでした。しかしイエス様の受けられた洗礼、そしてイエス様を信じる者に与えられる洗礼は、ヨハネが授けた洗礼を超えるものです。イエス様の名による洗礼を受ける人には聖霊の力が与えられ、イエス・キリストと一体になることができます。私たちは洗礼によって罪を赦されて新しい生き方に招かれるだけでなく、聖霊の守りを近くに感じ、イエス様と共に生きることができるのです。


イエス様は他の人と同じような姿で洗礼者ヨハネのもとに来られ、罪ある人間と同じように洗礼を受けてくださいました。しかしそれは神様の御心に適うことでした。こうしてイエス様が私たち人間と連帯してくださったからこそ、私たちが洗礼を受ける時、同じように聖霊をいただき、イエス様と一つになることができます。罪を赦されて、信仰を同じくする仲間と共に、新しい人生を生きることができます。今日は主の洗礼の主日です。洗礼が持つ様々な意味をご一緒に考えてみました。改めて洗礼の持つ深い意味を思い、イエス様が洗礼を通して私たちとつながっていてくださることを喜びたいと思います。


1月7日 教会の祈り

 

全能の神様。新しい一年がはじまりました。この一年もどうか私たちを守り、あなたの恵みのうちに導いてください。この年もあなたに信頼し、主にある喜びをもって過ごすことができますように。

 

主なる神様。1月1日に能登半島で大きな地震が発生しました。この地震によって亡くなられた方、被害に遭われた方の上にあなたからの慰めを祈ります。地震から一週間が経った今も不自由な生活を送っておられる方がたくさんおられます。どうかそのような方々の安全と健康をお守りください。

 

恵みの神様。明日は成人の日です。今年成人を迎えられた方々をあなたが祝福して、これからの歩みを希望に満ちたものにしてください。また、さまざまな事情で、成人式を迎えることなく天国へ召された方々とそのご家族にもあなたからの慰めがありますように。

 

慈しみの神様。今週から始まる大学入学共通テストをお守りください。受験生のみなさんの体調が守られ、力を出し切ることができますように。応援しておられるご家族のみなさん、教育関係者のみなさんのこともあなたがお支えください。

 

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