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イエス様の旅

2023年6月10日 聖霊降臨後第二主日

マタイによる福音書9章9~13節と18~26節


福音書  マタイ9:9-13,18-26 (新15)

9イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。 10イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。 11ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。 12イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。 13『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

18イエスがこのようなことを話しておられると、ある指導者がそばに来て、ひれ伏して言った。「わたしの娘がたったいま死にました。でも、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、生き返るでしょう。」 19そこで、イエスは立ち上がり、彼について行かれた。弟子たちも一緒だった。 20すると、そこへ十二年間も患って出血が続いている女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れた。 21「この方の服に触れさえすれば治してもらえる」と思ったからである。 22イエスは振り向いて、彼女を見ながら言われた。「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。」そのとき、彼女は治った。 23イエスは指導者の家に行き、笛を吹く者たちや騒いでいる群衆を御覧になって、 24言われた。「あちらへ行きなさい。少女は死んだのではない。眠っているのだ。」人々はイエスをあざ笑った。 25群衆を外に出すと、イエスは家の中に入り、少女の手をお取りになった。すると、少女は起き上がった。 26このうわさはその地方一帯に広まった。


今日から聖霊降臨後の期節に入りました(正確には先週の三位一体主日が聖霊降臨後第一主日の扱いになるので、先週からです)。聖霊降臨後の期節には主に、イエス様が弟子たちと旅をしながら教えられたこと、そしてイエス様がなさった奇跡について伝えられていることを聞いていきます。イエス様はその誕生、またその十字架をもって私たちにたくさんのものを与えてくださいましたが、それと同時に、イエス様が自ら方々を巡り歩いて、ご自分の言葉で教え、ご自分の手を伸ばして困っている人を癒されたことは私たちが知るべき大切なことがらです。そういうクリスマスでもイースターでもない、しかし大切なことというのが聖霊降臨後の日課には詰まっています。


今日の福音書の物語にはいくつかのエピソードが含まれていました。「徴税人マタイを弟子にする話」「指導者の娘を生き返らせる話」「出血の止まらない女を癒す話」です。どれも他の福音書ではもっと詳細に語られている話ですが(たとえばマルコとルカの「ヤイロの娘を生き返らせる話」はもっと長くてドラマチックです)マタイ福音書の著者はこれを比較的簡潔にまとめています。しかしながらこれはこれで、はっきりとした意図をもってまとめられていると言うことができます。今日の日課から読み取れるのは、律法よりも愛を優先されるイエス様とそれに応える人々の信仰です。


今日の日課はイエス様が通りがかりにマタイという人物を見かけるところから始まります。収税所に座っていたことからこのマタイという人は徴税人であったことがわかります。イエス様がマタイに「わたしに従いなさい」と言われると、マタイは立ち上がってイエス様に従いました(つまり、イエス様の弟子になりました)。そうして弟子になったマタイはイエス様を自宅に招き食事をします。イエス様が招きに応じて食事をしていると、マタイの仲間であろう徴税人や罪人が大勢集まってきました。


ここで「罪人」という言葉が出てきましたが、当時のイスラエルの社会において「罪」というのは第一義的に神の律法を守らないことを指しています。職業上の理由や、金銭的、精神的、肉体的な不自由さから、律法(安息日の規定、食物規定、清浄既定など)を守ることができない人はみな「罪人」と呼ばれていました。だから人を殺したり物を盗んだりしていなくても「罪人」でした。仕事があって礼拝に行けない、お金がなくて献金できない、心身の病気があって奉仕ができない、そういう人たちはみんな「罪人」ということになりました。そしてローマ帝国に納める税金をユダヤ人から徴収していた徴税人もまた、異邦人支配の手先であるとして「罪人」と呼ばれています。


そんな「罪人」であるマタイの仲間たちもまた、似たような境遇にいる人々でした。そういうわけでイエス様はマタイをはじめ徴税人や罪人と一緒に食事をしておられたわけですが、それを見たファリサイ派の人々はイエス様の弟子たちに「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と尋ねます。律法の専門家である彼らは、そのような社会的階層の人々と交わること自体、宗教的に好ましくないと考えていたからです。


イエス様はこれを聞いて「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」と言われます。ここでイエス様が引用しておられるのは今日の第一の日課であるホセア書6章の「わたしが喜ぶのは/愛であっていけにえではなく/神を知ることであって/焼き尽くす献げ物ではない。」という言葉です。父なる神様が、いけにえや焼き尽くす捧げものに代表される儀式的・形式的な正しさよりも、愛を実践し神を知ることを喜ばれるように、イエス様もまた罪人と食事をしないという正しさよりも、彼らを憐れみ愛することを優先しておられるのだということが言われています。イエス様が来られたのは、律法を廃棄するためではありません。そうではなくて、神様から与えられた尊い律法を、憐れみと愛の目線で再解釈・再実践することです。このイエス様のまなざしの前では、イエス様に近づいてはいけない人など存在せず、どんな人もイエス様の憐れみと愛を受けることができます。


ではそのようなイエス様の深い愛に対して人間はどのように応答するべきでしょうか。罪人と一緒に食事をしないこととか、焼き尽くす献げ物をすることではないことは確かです。もちろん隣人愛も大事です。でもイエス様は隣人というよりは神の子ですので、別に私たち人間に憐れんでもらわなくてもイエス様は何も困りません。ではなにが大事かというと、今日の日課によれば、それは信仰であると言うことができます。


日課の後半では「指導者の娘を生き返らせる話」「出血の止まらない女を癒す話」が続きます。聖書に親しんでおられる方はおそらくマルコ福音書とルカ福音書に記されている「ヤイロの娘の話」を思い出されると思います。おおむね同じ話ですが、マタイ福音書ではこの話は三分の一くらいの長さに短縮されていて、ヤイロの名前も出てこず、彼が会堂長であったことも語られず、ただ「指導者」となっています。また私たちのイメージの中にあるこの話はヤイロが「娘が死にそうです!」と言ってイエス様のところに来て、途中出血の止まらない女を癒している間に娘が死んでしまってハラハラドキドキ…というものですが、この話の場合はもう亡くなっています。そういう意味でマタイのバージョンはそんなにドラマチックではありません。


一方、マタイ福音書の著者がこの話を短くまとめたことによって「信仰」というテーマはより一層際立っています。無名の指導者が娘が死んでもなおイエス様なら生き返らせてくれると信じた信仰、出血の止まらない女がイエス様の服の一番端っこにでも触れれば病気が治ると信じた信仰、ここで語られているのはそれだけです。マタイ福音書の著者は、二人のいわば「伝説的信仰者」の姿を他の要素を排することでより力強く描き出しています。


物語のあらすじはこうです。イエス様がヨハネの弟子たちと話しておられるところに「ある指導者」がやって来ます。彼はやって来てイエスの足もとにひれ伏し「わたしの娘がたったいま死にました。でも、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、生き返るでしょう。」と願います。娘は既に死んでいるのですが、この指導者は最初からイエス様に娘を生き返らせる力があることを信じています。それで本来は家にいて家長としてお葬式の準備をするところを、家を飛び出してイエス様のところにやって来たのです。のちの24節において、人々はイエス様が少女を生き返らせに来たというのを聞いて「あざ笑った」とありますから、家の人や近所の人はそこまでイエス様を信じていたわけでもないのでしょう。しかし彼はたった一人イエス様を信じてやって来ます。この時点ですごい話です。


続いてイエス様は十二年間も患って出血が続いている女(口語訳「十二年間も長血をわずらっている女」)に出会います。彼女は近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れます。当時のユダヤ人の男性は上着の四隅に房(タッセル)の付いた服装をしていたようです。民数記15章には「イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。代々にわたって、衣服の四隅に房を縫い付け、その房に青いひもを付けさせなさい。」とあります。女性は先ほどの指導者とは違って、正面からイエス様に出会うということをしませんでした。彼女のような病気を患っている人は律法上汚れた人とされ、また彼女が触れた人や物はすべて汚れるとされていたからです。


イエス様は彼女がしたことにすぐに気づきます。そしてイエス様は彼女に「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。」と声をかけられます。律法を順守するならば、彼女から汚れが移ったことを深刻に受け止めて清めの儀式をするべきでしょう。そして故意に汚れを移した彼女を叱るべきでしょう。しかしイエス様はそういうことはしませんでした。元気になりなさい、あなたの信仰立派だね、と言ってくださったのです。十二年間何をしても治らなかった重い病気が私の服の一番端にでも触れれば治ると信じた、汚れた者として常識的な行動をするよりも信仰者として大胆に行動することを選んだ、そんなあなたの信仰を私は受け止めたよ、と言ってくださったのです。イエス様は律法よりも憐れみと愛を優先されるお方、そして人々の信仰を喜ばれるお方だからです。イエス様に癒された女性は元気になって、模範的な信仰者として語り継がれることになりました。


そうしてイエス様は指導者の家に着きます。イエス様が家に着くと、そこには笛を吹く者たちや騒いでいる群衆がいました。不幸事があった家で笛を吹くのはユダヤにおける習わしです。また「騒いでいる群衆」の一部は慣習に従って家の者が用意したプロの「嘆き屋」でありましょう。人々は娘が亡くなったことを受け入れてお葬式の手続きを開始していました。「イエス様がいればこの子は生き返るのだ」と信じていたのは、どうやら家の主人である指導者ただ一人であったようです。イエス様をあざ笑う人々を無視して、指導者はイエス様を家の中に案内します。そこには亡くなった娘が横たわっていました。


指導者はイエス様に対して「おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、生き返るでしょう。」と願いました。しかし律法的に言えば、死んだ人と言うのは出血が止まらない女性よりもなお汚れた存在です。一度死体に触ってしまえばその人は7日間汚れているとされ隔離されました。出血に触った場合が夕方までの隔離だったことを考えると相当な「汚れ」です。しかしイエス様は迷うことなく死んだ少女の手を取られます。イエス様にとっては律法的に正しく・汚れなくいることよりも、この娘を憐れみ、指導者の信仰に応えてあげることの方が大切だからです。そうしてイエス様が娘の手を取ると、娘は生き返りました。「みんなはあざ笑うけれども私はイエス様を呼びに行く」「この方に手を置いていただきさえすれば娘は生き返る」と信じた指導者の信仰が実現したのです。そうして彼は先ほどの女性と同様に、私たちの信仰の模範として語り伝えられることになりました。


今日の日課が明らかにしているのは「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」というイエス様の姿です。イエス様は律法を無視されたわけではありませんでしたが、しかし律法上の正しさや清さにとらわれることなく、積極的に憐れみと愛を実践されました。そしてまた同時に、そのようなイエス様の働きが実現するのは信仰のあるところ、律法的に正しいところ・清いところではなくて、信仰のあるところだということも示されました。私たちが今日出てきた人々のような偉大な信仰を持つには至りませんが、しかしそのような信仰の物語に感動し、それを良いものとして受け取る気持ちを持ち続けていたいと思います。



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