top of page

わたしは良い羊飼いである

2024年4月20日・21日 復活節第四主日

ヨハネによる福音書10章11~18節 「わたしは良い羊飼いである」

 

福音書  ヨハネ10:11~18 (新186)

10:11わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。 12羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。―― 13彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。 14わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。 15それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。 16わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。 17わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。 18だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」


先週に引き続き、復活節の期節を過ごしています。今日から日課は復活後のエピソードを離れてヨハネ福音書のイエス様の講話に移ります。今日の物語はイエス様がファリサイ派の人々に向かって「わたしは良い羊飼いである」と話される場面です。ここではイエス様ご自身が「良い羊飼い」に、そして私たち人間がその「羊」にたとえられています。


羊飼いが自分の群れを気遣って、あらゆる危険から守るものだという考え方は、旧約聖書の時代から存在します。例えばエゼキエル書の34章を見てみましょう。ここではイスラエルの民が「羊」に、当時のイスラエルの指導者たちが「悪い羊飼い」に、そして主なる神が「良い羊飼い」にたとえられています。「悪い羊飼い」は苛酷に群れを支配して私腹を肥やします。毛を取ったり乳を飲んだりすることにしか関心がなく、羊が飢えていても危険な目に遭っていてもお構いなしです。


それに対して「良い羊飼い」は「群れを養い、憩わせ、失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする」と書かれています。羊が飢えたり迷子になったり獣に食べられたりすることのないように、一生懸命世話を焼きます。イエス様はそのようなお方、私たちを守る良い羊飼いであるというのです。


イエス様はさらに、わたしは羊のためならば命を捨てるとさえ言われます。イエス様が神の子でありながら十字架で死なれたのは、羊のため、私たち人間の救いのためでした。そんな「良い羊飼い」と対極にあるのがイエス様曰く「雇い人」です。良い羊飼いが羊のために命を捨てるのに対し、雇い人は自分の命が助かるためなら羊を見捨てます。


雇い人が羊を見捨てるのは「羊のことを心にかけていないから」であるとイエス様は言われます。「心にかける」と訳されている「メレイ」というギリシア語は「心配する」「気にする」という意味です。雇い人にとって羊は心配する対象でも、気にかける対象でもありません。ただ利益のために支配する対象です。雇い人にとって羊は自分と対等な存在ではないからです。


しかし良い羊飼いであるイエス様はこう言われます。「わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。」イエス様にとって羊は支配の対象ではありません。心配し、気にかけ、相互に影響し合う存在です。お互いに知っていて、お互いに存在を確かめ合う相手です。そしてそれは「父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じ」ように起こる、とイエス様は言われます。父なる神様とイエス様の間に交わされている完全な愛と信頼が、イエス様と羊(私たち)との間に交わされているということです。それほどまでにイエス様は、私たちに高い価値を与えてくださっています。


イエス様がご自分の羊である私たちに高い価値を与え、大切にしてくださっているのは、私たちがイエス様と対等な存在であって、イエス様と同じくらい強くて賢いからでしょうか。そうではありません。羊という動物の特徴についてはみなさんも過去の聖書のお話で耳にされたことがあるのではないでしょうか。一般的に、羊は弱く、臆病で、方向音痴な動物であると言われています。私自身もそれは間違いではないと思っています。


私はルーテル教会が関わっている静岡県のデンマーク牧場というところでひと月ほどボランティアをしたことがあるのですが、そこで私が目にしたのは羊がカラスに食べられている光景でした。羊のところにカラスが来ては体に乗っかって、羊の体をくちばしでつついて、ちょっと肉を食べているのです。当然羊の体からは血が出ています。それで人間はカラスを追い払って消毒をしてあげるのですが、何回追い払っても、毎日同じことが起きます。毎回羊は人間に助けてもらえるまでカラスを体に乗せたままでいるのです。羊というのは変な生き物だなあと思ったのを覚えています。


人間から見れば羊はそのように無防備な生き物ですが、しかし神様から見た私たちもそれと同じであると今日の聖書の物語は語っています。このたとえ話ではイエス様が「羊飼い」に、そして人間が「羊」にたとえられていました。神様から見れば私たち人間は羊のように弱く、愚かで、無防備です。身を守る術を持たず、道に迷いやすく、自分が何をすればいいのかわかっていません。私がカラスに食べられている羊を見て愚かだなあと思っているように、神様は私のたちを見て愚かだなあと思っているはずです。


しかし同時に聖書が語るのは、イエス様がそんな私たちに、大きな愛を与えてくださっているということです。イエス様は私たちを養い、憩わせ、迷い出た時に連れ帰り、傷ついた時に包み、弱った時に強くしてくださるお方です。イエス様がそうしてくださるのは、私たちに何か見返りを求めてのことではありません。私たちが強いからでも優れているからでもありません。むしろどんなに私たちが弱くても、取るに足らなくても、イエス様はその尽きることのない愛から、私たちを養い、私たちのために命さえも捨ててくださいます。このイエス様を羊飼いとして慕い、ついていく群れが私たちであり、私たちの教会です。


先ほど私は、羊は弱い生き物であると申し上げました。しかしは弱いだけの生き物ではありません。羊はまた、従順な生き物です。羊飼いの声を聞き分け、その声にひたすらついていくということができる生き物です。羊は羊飼いについていくことができるからこそ、自分の身を守る強さがなくても生きていけるのです。私達たちもまた同じです。良い羊飼いであるイエス様について行くこと。それだけが私たちにできることであり、また、私たちがしなければならないことです。これからもイエス様の声に従い、いつまでもイエス様について行きたいと思います。


 

4月20日・21日 教会の祈り

 

司)祈りましょう。

 

全能の神様。西南女学院中学校・高等学校のために祈ります。今年度も6名の学生さんがルーテル小倉教会へ、2名の学生さんがルーテル八幡教会へ、1名の学生さんがルーテル直方教会へ、それぞれ出席を希望されています。彼女たちをはじめ、西南女学院で学ぶみなさんの上に、あなたの祝福がありますように。学生のみなさんの学びと健康を守り、よき出会いと、よき交わりを与えてください。

 

恵みの神様。病気療養中の人々のために祈ります。病床にあるみなさんがあなたの守りを信じ、少しでも平安な心で過ごすことができますように。あなたの癒しの御手を伸ばして不安や痛みを和らげてください。サポートされているご家族や医療関係者のみなさんのこともあなたが支えてください。

 

慈しみの神様。あなたは約束通り、良い羊飼い、主イエス・キリストを死人のうちからよみがえらせてくださいました。私たちの牧者、主イエスの声を聞き分ける信仰を与えてください。私たちを主イエスに従う群れとして養い、憩わせ、強めてください。

 

私たちの主イエス・キリストによって祈ります。

会)アーメン

bottom of page