ゆるされている
2021年4月4日 主の復活
マルコによる福音書16章1~8節
マルコ16: 1~ 8 (新97)
16:1安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。 2そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。 3彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。 4ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。 5墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。 6若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。 7さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」 8婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。
イースター、おめでとうございます。主はよみがえられました。長い四旬節を終えて、ついに復活のよろこびを分かち合う日がやってきました。四旬節の間、私たちは自分の罪と向き合い、イエス様が死なれたことを悲しみましたが、今日、それらはすべて、よろこびに変えられます。
今日の福音書はマルコ福音書16章です。物語は女性たちが香料を買いに行くところから始まります。香料というのは良い香りのする油や軟膏を指しています。ユダヤには遺体に油を塗るという文化があったので、女性たちはこれを買い求めたのです。彼女たちの名前はマグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメ。いずれもイエス様の十字架の死を見届け、埋葬に付き添った人物でした。
翌朝、日曜日の早朝になると彼女たちはイエス様の墓へ行きました。安息日を挟んだために死後二日が経過していたものの、遺体に油を塗ってしきたり通りの葬りをしようという意図があったのでしょう。彼女たちはまた、墓の入り口にある石について話し合っていました。墓の入り口は大きな石でふさがれていて、それを動かすにはかなりの人手が必要だったのです。聖書の時代、人々は柔らかい石灰岩を切り出して洞窟状の墓を作り、遺体が骨になるまで一年ほどそこに安置するということを行っていました。墓の入り口に石が置かれたのは墓の盗掘を防止するためで、平たい丸型の石を溝に沿って取り付けることで墓を封印していたのです。
女性たちは深い悲しみの中にあっても、現実的に考え、行動しています。計画的に香料を購入し、墓石を転がす必要についても考えていました。イエス様が死んでしまったという事実を受け入れ始めていました。それは当然のことであったと思います。人間の力ではどうにもならないことがあるというのは私たちも常々実感していることです。
しかし墓に着いてみると、墓の入り口をふさいでいた大きな石は取り除けられていました。堅く封印されていたはずの墓の戸は開き、女性たちを迎え入れたのです。墓の中に入った女性たちは、白い長い衣を着た若者を発見します。この人物のことをマタイやヨハネは「天使」と表現しています。そして天使と思われるこの見慣れない若者はこう告げたのです。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」
「かねて言われていたとおり」とあるように、これは14章においてイエス様ご自身があらかじめ告げられていたことでした。14章27~28節には《イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう』/と書いてあるからだ。しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」》とあります。このイエス様の言葉が現実になったのです。
ナザレのイエスは復活した。死からよみがえられて、ガリラヤで再び弟子たちを待っておられる。そう天使は告げています。イエス様は死んでしまった、もうどうしようもない、せめて香油を塗って葬るくらいしかできないと思っていた女性たちは非常に驚き、恐れます。これほどの奇跡を目の前にしたのですから無理もないことです。
しかしながらこれはやはり、大きなよろこびの知らせでした。イエス様は死者の中からよみがえられた。イエス様はやっぱり神の子だった。ガリラヤに行けばイエス様にお目にかかれる。イエス様はそこで弟子たちを待っておられる。こんなにうれしいことはありません。ガリラヤという場所は始まりの場所、イエス様が宣教を開始され、弟子たちを招かれた、信仰の原点とも言える場所でした。その懐かしいガリラヤで、私たちはイエス様に再び会うことができるのです。
女性たちはこの知らせを弟子たちに告げるように言われます。ここで多くの説教者が「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。」という言葉に注目しています。ペトロだけ独立して名前が記されていますよね。「弟子たちとペトロに」とペトロを強調した表現になっているのは、ペトロが弟子の代表者であったこととともに、イエス様を三度否認したというその罪の大きさが関係しています。イエス様を捨てて逃げ、イエスなんていう人は知りませんとまで言ったペトロ。あえてペトロの名前が呼ばれたのは、そのペトロでさえも、他の弟子たちと共に招かれているということを確認するためでした。
マルチン・ルターは、受難物語におけるペトロについてこう記しています。「受難の物語のうちでも、ペテロの否認のくだりはきわだって綿密に描かれています。それには理由があります。罪のゆるしほど、信じがたいことはないからです。…すべての人が励まされるように、罪のゆるしはペテロの実例において徹底的にえがきだされねばならなかったのです。」受難物語におけるペトロの行いは、罪の見本、裏切りの見本でありました。しかし復活の日に、そんなペトロでさえも赦されているということが明らかになるのです。この時、罪の見本は赦しの見本に変わります。私たちはペトロが赦されたと知る時、大いに励まされるでしょう。四旬節の間自らの罪と向き合い、ペトロの行いが他人事とは思えなくなった私たちは、復活の日、その罪が完全に赦されたよろこびを知るのです。ペトロが赦されたように、私たちも赦されているのです。
イースターおめでとうございます。主はよみがえられて、私たちを救い、私たちのすべての罪を赦してくださいました。イエス様はご自分を裏切った弟子たちを赦し、彼らをガリラヤで待っておられます。私たちもまた罪を赦され、復活のイエス様と出会うよろこびに満ち溢れています。私たちクリスチャンにとってこれ以上おめでたい日はありません。このすばらしい日をこうして集ってお祝いできることに感謝したいと思います。
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