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へりくだること

2022年10月23日 聖霊降臨後第二十主日

ルカによる福音書18章9~14節


福音書  ルカ18: 9~14 (新144)

18: 9自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。 10「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。 11ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。 12わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』 13ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』 14言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」


引き続きルカ福音書を読んでいきます。イエス様は祈りについて「やもめと裁判官のたとえ」を用いて教えられた後、続けて「ファリサイ派の人と徴税人のたとえ」を話されます。「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々」に対して語られたこのたとえは、ルカ福音書にのみ収められているエピソードです。たとえには二人の人物が登場します。ファリサイ派の人と、徴税人です。当時の社会ではファリサイ派の人は尊敬されて、徴税人は軽蔑されていました。対照的な二人の登場人物です。


ファリサイ派の人は心の中で、自分が神の前で正しい者であることを感謝します。自分は他の人と比べて罪を犯していないと自ら証言しています。人間がこういう気持ちになるのは自然なことです。偉大な使徒パウロもフィリピの信徒への手紙3章において、自分はかつてファリサイ派の一員であって「律法の義については非のうちどころのない者でした。」と書いています。人一倍律法を熱心に守ってきたということがこのファリサイ派の人にとっても、かつてのパウロにとっても、大事なアイデンティティでした。


また彼は「わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。」と自分の行いについて述べます。週に二度の断食は、律法には定められていないものの、敬虔な人々の間で習慣となりつつあった行為です。ルカ福音書5章において洗礼者ヨハネの弟子たちはしばしば断食していると証言されています。十分の一税についても同様に、多くの人がこの律法を厳格には守っていなかった中、ファリサイ派の人々はそれを忠実に守り、少なくない金額を納税していました。そしてそういった信仰の熱心さ、よい行いのゆえに彼らは人々に尊敬されていたのです。


一方、徴税人は遠くに立って胸を打ちながら「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」と告白します。聖書に登場する「徴税人」は、ローマ帝国に納める税金をユダヤ人から徴収していた人々を指しています。彼らは手数料の取りすぎによって民衆に嫌われ、さらには異邦人支配の手先であるとして「罪人」という扱いを受けていました。彼は自分が罪人であることをわかっています。そのうえで、神様の恵みを求めているのです。


祈る時、徴税人は神の前で両手を上げることも、祈りの時に天に目を向けることもしません。手を上げる、天をあおぐという動作は、通常祈りの時に行われるものでありましたが、彼はそれを行うことができないほどに自分の罪を意識していたのです。そしてただ彼は神の恵みを懇願します。「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」自分を救うことができるのは神様の憐れみだけであるということを彼は知っているのです。


イエス様はこのたとえを結論付けて「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」と言われます。当時の社会的背景を考えると、これを聞いていた人は皆、義とされる(神様に正しいと認められる)のは徴税人であると思っていたことでしょう。しかし誰を義とするかをお決めになるのは神であって人間ではありません。そして、義とされるのは徴税人のほうであるとイエス様は教えられるのです。


ファリサイ派の人の例からわかるように、私たちは自分の正しさと引き換えに神の恵みを手に入れることはできません。それは無償で与えられるので、私たちは自分の行いをアピールして神様と取引する必要はないからです。もちろんよい行いをすることは無価値ではありません。でも究極的には私たちを救いに導くものではありません。このたとえは、私たちが自分の罪を自覚すること、神様の前でへりくだることの大切さを教えています。人間の悔い改めと従順を神様は喜ばれるからです。


もちろんよい行いは大切です。相対的に悪く言われているファリサイ派の人ですが、律法を残らず守ることも、みんながごまかしている十分の一献金を自分だけはきっちり納めるということも、口で言うほど簡単なことではないはずです。彼が人々に尊敬されているのにはそれなりの理由があるのです。でも私に従う者は、そこがゴールであってはならないとイエス様は言われます。その一歩先を行って、たとえよい行いをしたとしても、どんな時でも謙遜な心を持ち続けなければならないとイエス様は教えておられるのです。


それはイエス様ご自身がどういうお方であったかということを考えるとよくわかります。イエス様は何も持たずに旅をして、たくさんの人を癒され、たくさんのことを教えられました。そして最後は私たちを罪から救うために十字架で死なれました。でもイエス様は「私は何も持たずに旅をし、たくさんのことを教え、みんなのために十字架にかかりました!ほかの誰もできないようなことをしました!」とは言いません。イエス様は謙遜な方だからです。私たちもイエス様のその姿に従わなければなりません。


かつて「律法の義については非のうちどころのない者」であったと記したパウロは、続く箇所でこう記しています。「しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。」人と比べて有利なこと、誇れることがたくさんあっても、謙遜になることができなければそれはかえって損失です。損失というのはつまり、イエス様から心が離れていってしまっているということです。イエス様はそうであってはならないと言われます。人と比べて誇れるものなど何もなくていいから、私と共にいなさいと言われるのです。神様を礼拝するこのひと時に、改めて自分を振り返り、神様の恵みを求めたいと思います。

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