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なにが正しいか

2024年10月5日・6日 聖霊降臨後第20主日


福音書  マルコ10:2~16 (新81)

10:2ファリサイ派の人々が近寄って、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と尋ねた。イエスを試そうとしたのである。 3イエスは、「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返された。 4彼らは、「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と言った。 5イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。 6しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。 7それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、 8二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。 9従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」 10家に戻ってから、弟子たちがまたこのことについて尋ねた。 11イエスは言われた。「妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の罪を犯すことになる。 12夫を離縁して他の男を夫にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」

13イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。 14しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。 15はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」 16そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。


先週に引き続きマルコ福音書を読んでまいります。カファルナウムから南に移動されたイエス様は、集まった群衆に対して教えておられます。そこへファリサイ派の人々(イエス様と敵対するグループの人々)がやってきて、こんな質問をしました。「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか。」はじめに申し上げておくと、離縁をすることは律法違反ではありません。申命記24章1節には「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる。」と記されています。この規定のことを律法の教師である彼らが知らないはずはありませんでした。


しかし一方で、この律法をどう解釈するか、何が「恥ずべきこと」(離婚理由)にあたるかということについては古くから様々な議論がありました。律法学者たちの中には些細なことでも離婚を許可したグループもあれば、不貞行為があった時のみ離婚を許可したグループもありました。またどんな理由があっても離婚や再婚を認めないというグループもありました。本来申命記24章の律法は、理由のない離縁、書類作成を伴わない離縁を禁じるものです。律法で言われている離縁状というのはその女性の結婚生活が終了していることを公的に証しするもので、それを持っていないと女性は再婚をすることができなかったからです。


このように男性本位の安易な離縁、書類を作成しない離縁を禁止することで女性を保護することを目的としたこの律法でありましたが、時代が下るにつれて、男性たちの関心はどうやったら合法的に離縁できるのか、どうやったら合法的に新しい妻をめとることができるのか、ということに移っていきます。その結果、このよう論争に発展していったと言われています。(「男性の」と限定的に言ったのは、他の多くの古代国家と異なり、ユダヤでは男性のみが離縁を申し出る権利を持っていたからです。)


このような背景をもって投げかけられた問いに対して、イエス様は「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返されます。ファリサイ派の視点が、いわば「人はどこまでなら好きにしていいのか、どうすれば許された限界内で自分に都合よく振る舞えるのか」というものだったのに対して、イエス様の視点はそもそも神様が何を語られたかというところにあります。「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と答えた彼らに対して、イエス様は「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。」と話し、男性本位の離縁を奨励することが本来の律法の意図ではないということを言われます。先ほど申し上げたように、この律法は様々な事情に応じて、女性が保護された状態で離縁することを教えるものだからです。


さらにイエス様は創世記を引用して結婚について語られます。神様がそもそも結婚に何を望まれたかを考えることをイエス様は大事にされていたからです。確かに、どこまでだったら人間の好きにしていいかを考えるよりも、本来神様が何を私たちに望まれたかということを考えていった方が、信仰上よほど健全です。しかし同時に覚えておきたいのは、神様が何を望まれたかということは私たちを裁くために教えられるものではないということです。信仰生活というのは、神様が望まれないことをしてしまったらそれで終わりというような、そんな単純なものではありません。私たちは神様の望まないことばかりして生きていますが、それを全部赦していただいて生きているのです。


こうしてイエス様はファリサイ派の人々の悪意ある質問を斥けました。この時ファリサイ派ではなくて実際に悩みを持った相談者がイエス様に同じ質問をしていたら、イエス様はもっとその人に寄り添った個別具体的な回答をしてくださったと思います。しかしこの場面は律法の専門家が律法解釈を問うという場面ですので、イエス様も聖書を引用して、結婚の本来の在り方にまでさかのぼってお話しされたということでしょう。専門家の間でも意見が分かれるような難しい質問をしてイエス様を陥れようとするファリサイ派の人々の企ては失敗に終わりました。


続いての場面では、人々がイエス様に触れていただくために子どもたちを連れてきます。イエス様に祝福してもらおうと集ったこの人々を弟子たちは叱りました。ただでさえ忙しいイエス様をさらに煩わせることになると思ったのでしょう。しかしイエス様はそんな弟子たちに対して憤り、「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。」と言われます。子どもが子どものままで、つまり律法を理解せず何も成し遂げないままで神の国に入ることができるというイエス様の教えは、弟子たちにとって驚くべきものでありました。


イエス様はさらに子どもたちを抱き上げ、手を置いて祝福されます。子どもを子どものまま受け入れ、無条件に祝福されたのです。イエス様は子どものように神の国を受け入れなさいと言われます。これまでの場面で大人たちは、誰が一番偉いかを比べ合ったり、離縁の条件についてあれこれ議論したりしてきました。そんな彼らよりも、これらの小さな子どもたち、何も持たず何も考えず、ただイエス様のもとに来る子どもたちのほうが神の国に相応しいとイエス様は言われたのです。


今日の聖書の物語では子どもたちがありのままでイエス様に受け入れられている姿と、色々なことを知っているがゆえに余計なことを考えてしまう大人たちの姿が一つの対比になっています。イエス様はその二者のうち、子どもたちの姿の方を良しとされました。しかし生きていれば大人になるのは避けられないことで、イエス様が抱き上げた子供だってきっと10年や20年もすれば結婚生活で悩むようになるんだと思います。みんな順番に大人になって色々な経験をしていきます。そして色々な経験をする中で、より深く自分を知って、より深く神様を求めるようになるのだと思います。


イエス様が抱き上げた子どもたちは、自分が正しいかどうかを気にすることなくイエス様の胸に飛び込むことができました。それは素晴らしいことであり、私たちが本来神様に対して持っている在り方であり、私たちが最後に戻っていく姿です。しかし大人は大人で、人は完璧に正しく生きられないということを知っています。色々な経験を通して自分の不完全さを知って、だからこそ神様に赦されるということのうれしさをより深く感じて生きています。私たちは罪人同士です。罪人同士赦し合って、共に神様の方を向いて、支え合いながら生きていきたいと思います。


10月5日・6日 教会の祈り

 

司)祈りましょう。

 

全能の神様。この国の政治を顧みてください。私たち一人ひとりと、政治の任を託された者たちが愛と正義を求め、社会の平和と公正のために仕えることができますように、お導きください。

 

恵みの神様。秋が来て朝晩の冷え込みを感じるようになりました。季節の変わり目にあって私たちの体調をお守りください。2024年の残りの日々を、あなたと共に、聖書と祈りに親しみながら送ることができますように。

 

慈しみの神様。石川県で発生した豪雨被害を覚えて祈ります。能登半島地震で大きな被害を受けた地域が再び自然災害に見舞われ、私たちは心を痛めています。この大雨によって亡くなられた方、被害に遭われた方、大切なものを失くされた方の上にあなたからの平安がありますように。

 

私たちの主イエス・キリストによって祈ります。

会)アーメン

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