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いちばん偉い者

2021年9月19日 聖霊降臨後第17主日

マルコによる福音書9章30~37節


福音書  マルコ9:30~37 (新79)

9: 30一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。 31それは弟子たちに、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言っておられたからである。 32弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。

33一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。 34彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。 35イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」 36そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。 37「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」


先週私たちは、ペトロの信仰告白と、それに続くイエス様の一度目の受難予告について聞きました。イエス様は「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」と言われ、苦しみを受けることですべての人を罪から救うメシア像を語られました。今日は二度目の受難予告を取り上げて、イエス様が死と復活の予告を通して弟子たちにお伝えになりたかったことを、より詳しく見ていきたいと思います。


今日の物語はイエス様がガリラヤを歩かれるところから始まります。ガリラヤはイエス様の生まれ故郷であり、イエス様が伝道を始められた場所です。1章39節に「そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された。」とあるように、ガリラヤはイエス様が精力的に伝道された土地でありましたが、この時のイエス様は人に気付かれるのを好まれなかったとあります。そしてそれは弟子たちに受難の話をされたからだと聖書には書かれています。受難予告の後、弟子たちと水入らずの時間を過ごすことで、イエス様は彼らをケアしようと考えておられたのではないでしょうか。


弟子たちはイエス様の受難予告を受け止めきれていませんでした。すでに先週の箇所ではイエス様の一度目の受難予告をいさめたペトロがイエス様にサタンと呼ばれて叱られています。それから弟子たちはイエス様の言葉を表立って否定することはなくなりましたが、かといってそれを受け入れることもできないでいました。そして彼らは「この言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった」と書かれています。イエス様にこれ以上何かを尋ねて、自分たちの望まない答えを返されるのが怖かったのです。彼らはまだ、イエス様の栄光の分け前をいただくという夢を捨てきれずにいました。


そうしているうちに一行は目的地のカファルナウムに到着します。するとイエス様は弟子たちに「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになりました。弟子たちは黙り込みます。実際には「だれがいちばん偉いか」と議論し合っていたのですが、それをイエス様に言うことが恥ずかしく思われたのです。「だれがいちばん偉いか」という弟子たちの関心からは、「偉いことは良いことである」「自分も偉くなりたい」という彼らの価値観が見て取れます。しかしこれはイエス様ご自身の価値観、イエス様が教えておられた価値観とは真逆のものでした。それがわかっていたからこそ、弟子たちは自分たちのしたことが恥ずかしくなったのです。


黙っている弟子たちを呼び寄せて、イエス様は話を続けられます。弟子たちの答えがないのにイエス様が話を続けられたのは、イエス様が彼らの論じ合っていた内容を知っていたからでした。イエス様は自らの行いを恥じる弟子たちをこれ以上追い詰めません。代わりに弟子たちの心を見抜き、「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」と言って諭されました。高い地位を得て、人に仕えてもらうことを夢見る弟子たちに、イエス様は自ら仕えることの大切さを説きます。これは弟子たちの価値観を逆転させる教えでありました。


続けてイエス様は一人の子ども(おそらくは幼な子)を抱き上げてこう教えられます。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」当時の社会で子どもが象徴したのは、無邪気さや純真さというよりはむしろ、社会的地位のなさや法的権限のなさでした。子どもは律法を理解できない「半人前の大人」に過ぎなかったのです。


そのような弱い存在である子どもは「いちばん偉い者」とは対極の存在でした。しかしそのような子どもを受け入れるようにとイエス様は言われます。「受け入れる」と訳されている「デキソマイ」というギリシア語は「受容する、歓迎する」という意味を持つ言葉です。子どもを歓迎し、受け入れる者は、イエス様とイエス様をお遣わしになった神を受け入れることになるというのです。イエス様は小さな者、無力な者とご自分を同一視され、しかしそのようなご自分を受け入れる人こそが真に幸せな人だと教えられたのでした。


こうしてイエス様は「だれがいちばん偉いか」ということに関心を持ち、「偉くなりたい」と願う弟子たちに対して、「人に仕えること」「自分を低くすること」の大切さを教えられます。そしてそれはまさにイエス様がなさったことのすべてでありました。パウロはイエス様の生涯を表して「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリピの信徒への手紙2章6~8節)と書きました。まさにこの生き方をイエス様は教えておられるのです。


弟子たちの持っていた思いは、非常に素朴な、人間なら誰でも持つような思いです。私たちは「偉くなりたい」「人に尊敬されて特別扱いされたい」という思いを誰しも持っています。しかしそれはイエス様の思いとは異なるものです。偉くなって人に仕えてもらうことを期待してイエス様に近づくならば、その期待は裏切られることになります。イエス様は一貫してそれを求めず、かえって自分が仕えること(そして互いに仕え合うこと)の中に本当の幸せを示されたお方であるからです。


今日の聖書の物語でイエス様はご自分の受難予告に合わせて「人に仕えること」「自分を低くすること」の大切さを教えられました。これらの大切さを理解することができなければ、私たちはイエス様の十字架を理解することができません。イエス様の十字架は、イエス様が自分を低くして私たちに仕えてくださった出来事であるからです。そのことを私たちは改めて思い、感謝したいと思います。そして「仕えられる人ではなく仕える人になりなさい」というイエス様の呼びかけを胸に、今日も生きていきたいと思います。


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