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あなたの信仰があなたを救った

福音書  ルカ17:11~19 (新142)

17: 11イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。 12ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、 13声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。 14イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。 15その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。 16そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。 17そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。 18この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」 19それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」


引き続きルカ福音書を読んでいきます。イエス様はエルサレムへ上る途中、弟子たちと共にサマリアとガリラヤの間を通られました。そこである村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人がイエス様一行を出迎えます。当時の社会では、重い皮膚病を患っている人は隔離され、人里離れたところに住むことになっていました。宗教的にも重い皮膚病を患う人はその存在自体が汚れているとされ、町の城壁の中に入ることも、エルサレム神殿に入ることも、許されていませんでした。


重い皮膚病はそれなりによくある病気であった一方で、当時の医療技術では治ることが少なかったようです。旧約聖書を見ても重い皮膚病が治癒した例はミリアム、ナアマンの二例が挙げられているのみです。このことから重い皮膚病は神が下した罰であるとも考えられていました(当時、人間の力で解決できないことはたいてい神の罰と思われていました)。このようにほとんど不治の病であった重い皮膚病ですが、神の子であるイエス様はそれを癒す力をお持ちでした。福音書にはイエス様が重い皮膚病を患う人を癒される場面が複数描かれています。


十人の重い皮膚病を患う人々は、遠くの方に立ち止まったまま、イエス様に向かって声を張り上げます。彼らは「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と叫びました。律法では重い皮膚病を患う人たちは健康な人と接触してはならず、近づく人に汚れがうつらないように「私は汚れた者です」と自ら警告するきまりになっていました。彼らは律法の規定を守り、遠くの方に立ち止まったままで癒しを願います。十人の内訳はユダヤ人が九人、サマリア人が一人でした。本来敵対関係にあり、関わり合わないユダヤ人とサマリア人でありましたが、同じ病気のもとでは対立も消えうせていていたのか、この場面ではユダヤ人とサマリア人が一緒に生活しています。


イエス様が彼らのことを見、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われると、奇跡が起こります。彼らはそこへ行く途中で清くされた、つまり病気が治ったと聖書は語っています。「祭司たちのところに行って体を見せる」というのはレビ記14章以下にある規定で、それによれば重い皮膚病が治った人は祭司から治癒の判定を受け、定められた供え物を捧げることになっていました。これらの儀式が済んで初めてその人は社会的に「清い」と認められるのです。祭司たちのいるエルサレム神殿の一角には、皮膚病が治った人専用の詰め所のようなものがありました。そこで回復した病人たちは律法の取り決め通りに犠牲を捧げたり、体中の毛を剃ったり、衣服と体を水洗いしたりしていたということがわかっています。


この奇跡によって、十人の病人たちは祭司のもとに行く途中で自分の病気が治ったことを確認します。そしてそのうち一人だけが「自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た」と聖書は語っています。この一人の男はサマリア人でした。この人はなぜ一人であったでしょうか。なぜ神殿に行く前に戻ってきたのでしょうか。他の九人を一緒に誘って戻らなかったのか、祭司のところに行ってから戻ってくるのではだめなのか、ここは背景が頭に入っていないとわかりづらいところかと思いますので少しご説明したいと思います。


まずこの男性がほかの九人と一緒に行動しなかったことについてですが、これはユダヤ人の神殿とサマリア人の神殿が別であったためです。九人がエルサレムにいるイスラエルの祭司に体を見せに行ったのに対し、彼だけは別行動をしてゲリジム山にいるサマリアの祭司に体を見せに行ったと思われます。ユダヤ人とサマリア人は同じ神を礼拝し、同じくモーセ五書を正典としていましたが、信仰の実践においてはさまざまな違いが見られました(そしてその違いのためにユダヤ人はサマリア人を低く見ていました)。もっとも大きな違いは神殿が別々であったということです。


また祭司のところに行った後で戻ってくるのではだめなのかということについてですが、これはだめです、間に合わないでしょう。祭司のところに行って戻ってくるまでにはとても時間がかかるからです。祭司というのは基本的にエルサレム神殿にいます(ちなみに各町や村にあるのは「会堂」で、そこにいるのは「律法の教師」です。)祭司のもとで行う清めの儀式には様々なプロセスがあり、儀式だけで八日間、エルサレム神殿まで往復する日数(片道二日間)や、間に安息日がはさまることを含めると、もとの村に戻ってくるのは約二週間後といったところでしょうか。その時にイエス様がもうおられないということはほとんど確実ですから、イエス様にお礼を言うためには「今」引き返してくる必要がありました。


これを受けてイエス様は「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」と言われます。十人癒したうち、神を賛美しイエス様に感謝したのはたった一人、それもユダヤの人たちが信仰的に劣るとしてきたサマリアの人一人だけだったからです。イエス様は、かといってほかの九人に罰を与えることはなさいませんでしたが、少々がっかりされました。イエス様が彼らに期待されたのは、奇跡を経験したことで彼らがますます神様を信じ、ますます神様をほめたたえることだったからです。


ほかの九人とは対照的に、サマリアの人は大切なことに気づきました。彼は「自分の病気を癒したのは誰か?」「それは神である」「誰を通して神は私を癒されたか?」「それはイエス様である」ということに気付いたのです。神殿まで行って帰ってきたのでは、イエス様に感謝を伝える機会を失ってしまいます。ですので彼は引き返してまず神を賛美し、まずイエス様に感謝するということをしました。これは神様の目から見てとても大切なこと、とても喜ばしいことでした。


イエス様はこの物語を「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」と言って結ばれます。イエス様はこのサマリア人の信仰をお認めになり、救いが信仰の上に存在するということ、救いが民族の境界に縛られないことを明らかにされたのです。第一テサロニケ5章に「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」とある通り、神様がしてくださったことを喜ぶということ、神様のしてくださったことに感謝すること、これが神様が私たちに望んでおられることです。神様がしてくださったことを喜び感謝するということは、神様の力を信じるということと同じだからです。


この物語から学べること色々あると思いますが、その中でも最もシンプルで大切なことは、「感謝を忘れない」ということではないでしょうか。日常生活において、私も感謝を忘れていたなと思うことがよくあります。急いでるとき、すれ違う人に道を聞いて、教えてくれた人に「そうですか!わかりました!」とだけ言って立ち去ってしまうこととかありませんか?あとは焦って探している物を「ここにあるよ」と言われて「あっここにあったか!」とだけ言って物を持って行くとか・・・。私は結構あります。多分みなさんにもしてると思います。それで後になってあの時「ありがとうございます」の一言がなぜ言えなかったかと反省します。


感謝を忘れている時の私は、道を聞く例でいえば、自分が目的地にたどり着くこと、時間通りに到着すること、で頭がいっぱいになっています。自分が目的を果たすことに一生懸命になってしまって、それを助けてくれた人への感謝を忘れているのです。その人がいなかったらそもそもそこにたどり着けなかったということを忘れているのです。後から感謝の念がわいてきたとしても、目的の場所で用を済ませてからお礼を言うのでは遅いのです。お礼を言おうと思って道を聞いた場所に行ってもその人はもうそこにはいないでしょう。


そういうことが私たちと隣人の間、私たちと神様の間ではよく起こります。特に神様は目の前におられない分、感謝するのを忘れがちです。戻って来なかった九人も、きっと自分のことで頭がいっぱいになっていたのでしょう。そんな彼らのこともイエス様が癒されたように、私たちに対しても神様はおしみなく恵みを与えてくださっています。感謝を忘れたからといって与えたものを取り上げるようなことはなさらないのです。しかし私たちが感謝を捧げることを、やっぱり神様は喜ばれます。感謝こそが私たちと神様を結ぶ絆だからです。今日のイエス様のお話を聞いて、神様への感謝を新しくしたいと思います。

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