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神の望み

2023年10月1日 聖霊降臨後第十八主日

マタイによる福音書21章23~32節


福音書  マタイ 21:23~32 (新41)

23イエスが神殿の境内に入って教えておられると、祭司長や民の長老たちが近寄って来て言った。「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか。」 24イエスはお答えになった。「では、わたしも一つ尋ねる。それに答えるなら、わたしも、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。 25ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか。」彼らは論じ合った。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と我々に言うだろう。 26『人からのものだ』と言えば、群衆が怖い。皆がヨハネを預言者と思っているから。」 27そこで、彼らはイエスに、「分からない」と答えた。すると、イエスも言われた。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」

28「ところで、あなたたちはどう思うか。ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい』と言った。 29兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。 30弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は『お父さん、承知しました』と答えたが、出かけなかった。 31この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」彼らが「兄の方です」と言うと、イエスは言われた。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。 32なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。


先週は田村圭太さんと良い日曜日を過ごされたことと思います。イエス様は先週の「ぶどう園の労働者のたとえ」を話された後、エルサレムに向かわれ、今日の日課である21章からはエルサレムでのお話が展開していきます。イエス様がエルサレムに入られた後のお話は論争また論争です。はじめにイエス様は祭司長や長老たちと権威をめぐって争われ、続いてファリサイ派とローマ帝国への税金について争われ、そしてサドカイ派と復活をめぐって争われ、そうやって当時の権力者たちとことごとく対立されたイエス様は、最後には十字架にかけられることになりました。今日の聖書の日課はその論争集の最初の場面にあたります。


聖書には「イエスが神殿の境内に入って教えておられると、祭司長や民の長老たちが近寄って来」たとあります。祭司長とは宗教的指導者、長老とは共同体の有力者を指す言葉です。彼らはイエス様のしていることを見て「あなたは何の権威でこのようなことをしているのか」と問いかけます。「このようなこと」というのは21章の12節でイエス様が神殿から商人を追い出されたこと、そして14節において神殿の境内において目の見えない人や足の不自由な人たちを癒されたこと、そして23節において神殿で教えておられたこと、これらの行為を指しています。


祭司長と長老はこれらのことが気に入りませんでした。イエス様が彼らを差し置いて指導的に振る舞っていたからです。21章15節には「祭司長たちや、律法学者たちは、イエスがなさった不思議な業を見、境内で子供たちまで叫んで、『ダビデの子にホサナ』と言うのを聞いて腹を立て」たと記されています。ですから彼らはイエス様のところにやって来て「だれがその権威を与えたのだ」と言いました。これは純粋な質問と言うよりは批判です。「私たちが権威を与えていないのに何を勝手なことをしているのだ」という意味でしょう。


祭司長や長老というのは既存の権威構造のトップに立つ人々でした。神殿で教えるにも癒しを行うにも、自分たちの許可が必要だというのです。社会の枠組みによる承認、人から与えられた権威がなければ、そのような行為は許されないのだと彼らは主張しています。それで「だれがその権威を与えたのだ」とイエス様に詰め寄ったわけです。一方で、もしもイエス様がそれは天からのもの、神によって与えられた権威だと言おうものなら、彼らは神への冒涜だと言ってイエス様を責め立てるつもりでいたでしょう。これはイエス様を陥れるための質問でした。


しかし、そんな祭司長と長老たちに向かってイエス様はこう答えます。「ではヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか。」これは大変賢いお答えでした。祭司長と長老たちは「天からのものだ」と言ってしまえば、ではなぜ天からのものなのに信じなかったのかということになるし、「人からのものだ」と言ってしまえば、ヨハネを預言者だと思っている大勢の民衆を敵に回すことになります。結局彼らは「分からない」と答えるしかありませんでした。イエス様は「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、私も言うまい。」とおっしゃっています。


イエス様は彼らの問いに対して直接的な答えを避ける代わりに、三つのたとえを用いてご自分の権威と彼らの間違いについて語られます。三つのたとえとは直後に配置されている「二人の息子のたとえ」「ぶどう園のたとえ」「婚宴のたとえ」です。今日は一つ目の「二人の息子のたとえ」を見ていきましょう。


たとえの構造自体は簡単なものです。ある人に息子が二人いて、父親はそれぞれのところに行って「今日ぶどう園へ行って働きなさい」と言ったという話ですが、兄の方は「いやです」と答えたが後で考え直して出かけ、弟の方は「お父さん、承知しました」と答えたが実際には出かけなかったとう風に書かれています。そしてイエス様はこれらの二人の息子のうち「どちらが父親の望みどおりにしたか」と祭司長と長老たちに問いかけます。


彼らが「兄の方です」と答えるとイエス様は「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。」と語られました。ここでいう「徴税人や娼婦たち」は「神の救いから締め出されていると見なされているが、実際には神の望みを満たしている者」の象徴です。(「異邦人」という語もまた同じように用いられます。)彼らは世間からは罪人とされながらも、最終的に父の意志を行う者であるというのです。


反対に、弟の方は行儀正しく良い返事をしていますが実際には何一つしないという人です。これは「自分を信仰深い者、神の望みを満たしている者と見なしているが、実際にはそうではない者」の象徴であり、この話の中では祭司長や律法学者たちのことを指しています。イエス様は彼らがすでに神の律法に熱心であることを認めておられます。その姿はまるで一度は「お父さん、承知しました」と答えた二人目の息子のようです。しかし神の律法に従いながらヨハネやイエスに従わないということは、はいと返事だけして行かないことと同じことであるとイエス様は言われています。


イエス様は「徴税人や娼婦たち」に象徴されるような、これまで(望むと望まざるとに関わらず)神の律法をはずれて生きてきた人たちであっても、イエス様に従うのであればそれは最終的には父なる神様の望みを満たすことであると教えておられます。反対に、これまでどんなに律法に熱心であったとしても、イエス様に従わないのであれば、その人は最終的には父なる神の意志を満たしていない人であるということを言われているのです。


このようにイエス様はヨハネが示し、イエス様へとつながる義の道の先に本当の救いがあるということを示しておられます。そしてまた、イエス様は当時の指導者たちに真実を告げ「あなたは自分が思っているほどいい人間ではない」「悔い改めなければならない」ということを教えられました。これは彼らにとって受け入れがたい指摘であったので、イエス様はこれから十字架につけられることになります。イエス様にとってこのような教えは、まさに命がけの教えであったのです。


イエス様は人々を優しく赦された方であると同時に、命がけで人々を叱られた方でした。この時イエス様が祭司長や長老たちを叱られたのは、彼らが悔い改めて神の国に入ることをイエス様が望んでおられたからです。イエス様はたとえ自分が十字架につけられることになったとしても、目の前の人が信仰に立ち返ることを望まれたのでした。私たちもイエス様のお叱りの言葉に目覚め、悔い改めてみ言葉を聞き続けてまいりましょう。


今週の祈り

全能の神様。世界が平和でありますように祈ります。私たち人間の犯す争い、破壊、混乱をお許しください。命を脅かされ、心身に傷を負っている人々を顧みてください。この世のすべての人々が愛と平和のもとで共に生きる者となりますように。


恵みの神様。社会福祉法人光の子会のために祈ります。光の子会の利用者のみなさん、職員のみなさん、そして組織を支えるルーテル教会を顧みて、祝福してください。10月28日に行われる「ひかり祭り」の準備をあなたがお守りください。


慈しみの神様。直方教会の役員会を祝福してください。あなたが教会の奉仕のために召し出してくださった役員のみなさんを、いつも励まし助けてください。役員会の働きが御心にかなって行われ、教会に集う喜びを証しするものとなりますように。

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