命のパン
2021年7月31日 聖霊降臨後第10主日
日本福音ルーテル小倉教会・直方教会 説教
ヨハネによる福音書6章24~35節 「命のパン」
福音書 ヨハネ6:24~35 (新175)
6: 24群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないと知ると、自分たちもそれらの小舟に乗り、イエスを捜し求めてカファルナウムに来た。 25そして、湖の向こう岸でイエスを見つけると、「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか」と言った。 26イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。 27朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」 28そこで彼らが、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と言うと、 29イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」 30そこで、彼らは言った。「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。 31わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。」 32すると、イエスは言われた。「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。 33神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」
34そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、 35イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。
先週私たちは、イエス様が五千人以上の人々に食べ物を与えられたというお話と、イエス様が湖の上を歩かれたというお話を聞きました。今日はその続きを読んでまいります。今日の聖書の物語は、供食の翌日、群衆がイエス様を追ってカファルナウムにやってくるところから始まります。舟でカファルナウムにやってきた彼らは湖の向こう岸にイエス様を見つけて驚きました。弟子たちが一そうしかなかった舟で向こう側に渡ったこと、そこにイエス様が乗り合わせていなかったことを彼らは知っていたのです。
「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか」と言う彼らに対して、イエス様はその質問にはお答えにならず、彼らの欲求を指摘します。空腹を癒されたから私の後を追ってきただけだろうというのです。イエス様は彼らに「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。」と言われました。しるしとは、ただの奇跡行為ではなく、信仰を導く奇跡行為のことです。その意味で、彼らの奇跡体験はまだ不十分でした。本来、あのパンの奇跡は身体の欲求を満足させるための便利な手段ではなく、人々をイエス様を信じる信仰に導くためのものであったからです。
イエス様は続けて「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。」と言われます。朽ちる食べ物とは物質としてのパンや魚であり、永遠の命に至る食べ物とはイエス様ご自身です。そして、イエス様は命のパンを授けるために自らこの世に来られました。さらにイエス様は「父である神が、人の子を認証されたからである。」と言われましたが、これは「父なる神がイエス様に対して、人々に命のパンを与える資格を与えた」という意味でしょう。
それに対して群衆は「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と答えます。彼らは、イエス様が言っているのは神のみが与えることのできるこの世のものではない食べ物のことなのだということを理解し始めています。しかし一方で「永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。」というイエス様の言葉から彼らは、その食べ物をいただくためには神の求める特別の業を律法的に行わなければならないのだという結論を引き出しました。それで、「何をしたらよいでしょうか」と尋ねたのです。
そんな彼らに対してイエス様は「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」と告げられます。神が求めておられるのは多くの特別の業ではなく、ただ神の遣わしたひとり子を信じることであるということがここで明らかにされます。人々に唯一求められているのは、イエス様を通して啓示される神の御心を知り、イエス様を信じてイエス様に従うことであったのです。これは今の聖書を知っている私たちにとってみれば、とってもラッキーなお知らせ、話はこれで終わりです。
しかしながら、そのような信仰の呼びかけに対して、彼らはしるしを要求します。人々のこのような反応はヨハネ福音書中に繰り返し登場しています。2章18節では、ユダヤ教の指導者たちがイエス様に「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言っていますし、4章48節では、イエス様があるイエスは役人に「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と指摘しています。証拠を見せてくれたら信じてやってもいいというのは人間のありがちな態度です。しかしそれは同時に、神様を悲しませる態度でもあります。イエス様の行ったことに基づいてイエス様を審査し、その結果によっては信じてやろうという人々の心の闇が描き出されています。
さらに群衆は、彼らの先祖が荒れ野でマンナを食べたことに言及し、イエス様に同様の奇跡を要求しました。彼らは一日前に供食の奇跡を体験したにもかかわらず、イエス様がモーセに並ぶ者であることの証拠として、別の奇跡を要求したのです。彼らは、昨日自分たちが食べたのは地上のパンであって、自分たちの先祖が荒れ野で食べたものこそが天からのパンであると考えていました。信じなさいと呼びかけられるイエス様に対して証拠を要求し、昨日奇跡を体験したにもかかわらず別のもっとすごい奇跡を要求する。6章に登場する群衆の姿は、私たちの不信仰のお手本のようです。
そんな彼らに対して、また私たちに対して、イエス様は根気強く教えられます。イエス様はまず、荒れ野で天からのパンを与えたのはモーセではなく神様であることを教えます。マンナを降らせたのはモーセの力ではなく、神様の力でした。荒れ野でのエピソードは、モーセのすごさを証するものではなくて、神様の恵みを証するものであったのです。人々の誤りを正した上でイエス様は、「天からのまことのパン」について語り始められます。その神のパンは、天から降って来て世に命を与えるものだというのです。「天からのまことのパン」は物質ではなく、また人の手によるものでもありません。ただ神がお与えになるもので、それによって全世界の人々が命を得るためのものです。人々がどれほど無理解であっても、イエス様はその「天からのまことのパン」を彼らに与えようとしてくださっています。
今日の聖書の箇所でイエス様は、奇跡を体験しても信じないのでは意味がないということを言われます。イエス様のなさる奇跡は人々を信仰に導くためのものでした。またイエス様はご自分を疑い、試そうとする人々に対しても、根気強く教えられました。そして「天からのまことのパン」が存在するということを明らかにし、信仰の薄い彼らにも、そして私たちにも、それを与えようとしてくださっています。今日の聖書の箇所はこれで終わりでちょっと中途半端なのですが、来週の箇所ではイエス様のおっしゃる「天からのまことのパン」とは一体何かということが明かされて行きます。来週はおうちで、聖書を読んでまいりましょう。
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