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受難予告

2021年2月28日 四旬節第二主日

マルコによる福音書8章31~38節


福音書  マルコ 8:31~38 (新77)

31それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。 32しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。 33イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」 34それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。 35自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。 36人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。 37自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。 38神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」


四旬節の第二主日になりました。イエス様のご受難をおぼえる四旬節の期間は、伝統的に節制の期間とされてきました。昔のキリスト教徒たちはこの時期、断食、悔い改めの祈り、奉仕活動に精を出しました。(ここでいう断食は絶食とは違って、肉を食べないとか、食事の量や回数を減らすとか、そういう感じです。)今でも東方教会ではこうした節制が厳格に実践されていますし、ルーテル教会を含む西方教会においても、自発的に食事を制限したり、好きな食べ物や嗜好品を絶ったりするという人が多くいます。


実は私も一度だけやったことがあります。私はイースターに洗礼を受けたのですが、洗礼準備をしてくださった先生が、洗礼準備の一環としてこの期間何か好きなものを絶つように勧めてくださったので、私は四旬節の間コーヒーを飲まずに過ごすことにしました。その時気づいたのは、何かを我慢しながら過ごす四十日間はいつもよりも長く感じるということでした。四旬節はイエス様のご受難をおぼえる大事な時とはいえ、私たちは毎日忙しく過ごしていますから、意識しなければやっぱりあっという間に過ぎて行ってしまいます。何かを我慢することで四旬節という期間の長さや重みを感じた経験でした。


今日の聖書の物語では、イエス様が弟子たちに向かって、ご自分の未来について語られます。「あなたは、メシアです」と自らの信仰を言い表したペトロに対して、イエス様がご自分の死と復活を予告されたのがこの箇所です。ペトロの信仰告白を受けたイエス様は、ご自分がメシア(救い主)であるということの本当の意味を語り始められます。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」というのです。その言葉通り、イエス様は権力者たちにうとまれて十字架にかけられ、死んで三日目に復活されたのでした。そしてそれによってすべての人を罪から救われたのでした。


しかしペトロをはじめとする弟子たちはそのことが納得できません。ペトロはイエス様をわきへお連れしていさめ始めました。イエス様が救い主であるということと、イエス様が苦しみを受けなければならないということがつながらなかったのです。彼らが想像していたのは、イスラエルを立て直すメシア、敵国を滅ぼす救い主でありました。


そんなペトロをイエス様は「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」と言ってお叱りになります。苦しみを受け、死んで復活されることで人々を救うという神のご計画を妨げることは、弟子たちには許されていないのです。また、苦しみを受けるのではなくこの国の王になってほしいというペトロの願いは、サタンの誘惑にも通じるものでした。先週私たちは荒れ野の誘惑の箇所を読みましたが、ルカ福音書の荒れ野の誘惑の場面でサタンは「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」と言ってイエス様を誘惑します。あなたにふさわしいのは権力と繁栄です…。ペトロは図らずもサタンと同じ申し出をイエス様にしていたことになります。


しかしそのような申し出を斥けるようにして、イエス様は弟子たちと人々に言われます。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」非常に重い言葉です。十字架は反逆者や奴隷に対して執行された死刑の方法で、刑に処された者は十字架の横木を背負って処刑場まで歩くことを強いられました。イエス様はそうして虐待され、暴力を受け、残酷な方法で殺されます。イエス様はそのご自分の苦しみに、弟子たちと群衆が続くことを望まれました。マルコ福音書の最初の読者たちは迫害が現実のものであった時代を生きていましたので、これが書かれた当時、十字架を背負ってイエスに従えという命令は身近なものに感じられたでしょう。


イエス様の十字架を模範とする。自分の十字架を背負ってイエス様の後に続く。迫害や殉教が現実のものでない時代が訪れても、キリスト教徒たちはその道を模索し続けました。その結果が冒頭で申し上げたような四旬節の断食であったり奉仕活動であったりするのです。イエス様のように十字架で死んで復活することも、偉大な聖徒たちのように殉教することも、できないけれども、日常生活の中で少しでもこのイエス様の言葉に従おうとする試みです。イエス様の言葉があまりにも重くて、完璧に受け止めきれるわけではないけれども、それでも何かできそうなことをやってみようという気持ちは、現代に信仰生活を送る私たちにもわかる気がします。


もちろん神様に与えていただいた命ですから、私たちはそれを大事に生きる必要があります。でもそんな中にあっても、やっぱりイエス様が私たちのために死んでくださったことは忘れずにいたいし、イエス様が死から復活されたことのよろこびを心から待ち望んでいたいのです。ですから私たちもこの期間、教会やそれぞれの場所で、イエス様がたどられた受難の道をたどり、悔い改めの時を過ごしたいと思います。この四十日間は、何も気にしなければ忙しく過ぎていく時間です。しかし祈りながら過ごせば、長く、あるいは重く、感じられる四十日間であろうと思います。イエス様のご受難をしのび、復活の日を待ち望んで過ごしましょう。

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