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分裂の時

2022年8月14日 聖霊降臨後第十主日

ルカによる福音書12章49~53節


福音書 ルカ12:49~53

「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。父は子と、子は父と、/母は娘と、娘は母と、/しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、/対立して分かれる。」


イエス様はガリラヤを離れ、エルサレムに向かって旅をしておられます。イエス様はその道すがら弟子たちと群衆に様々なことをお教えになりますが、特に12章1節~13章9節においては、来るべき審判に備えるための教えがまとめて語られています。したがって12章49節から始まる今日の聖書の箇所でもイエス様は人々に終末的な警告をしておられます。


イエス様は「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。」と話し始められます。聖書において、火というのは裁きや滅びの象徴です。列王記下1章では預言者エリヤが天から火を呼んで敵を滅ぼしましたし、ルカ福音書3章においても「実を結ばない木は火に投げ入れられる」と語られています。また創世記19章には火と硫黄が天から降ってきてソドムという町を滅ぼした、しかしロトとその二人の娘は助かったというエピソードが記されています。


このように裁きや滅びの象徴である火でありますが、その火を投じるために私は地上に来たのだとイエス様は語られます。さらに驚くべきことに、私は平和ではなく分裂をもたらすために来たとイエス様は言われるのです。その具体的な例として家族が対立して分かれるとイエス様は教えておられます。


なかなか衝撃的な教えですが、聖書に書かれていることには時々こんな風に矛盾としか思えないことがあります。イエス様の誕生の場面ではイエス様は平和の君だと書かれているのに、ここでは平和ではなく分裂をもたらすと言われている。父と母を敬えという十戒の教えはいまだ有効であるはずなのに、イエス様は家庭内に対立をもたらされる。聖書にはそういう不思議なところがあるのです。


しかしながら、少し視点をずらせば、分裂があるという事実を聖書は決して見過ごさなかったと言うこともできます。聖書にはいいことだけ、平和なことだけが書かれているわけではないのです。例えば、イエス様は弟子を派遣する際、どこかの家に入ってその家に平和を願うようにと命じて弟子たちを送り出されましたが、同時にイエス様は彼らのことを迎え入れない人もいるということをはっきりと予告されました。平和が期待されるような場面でも、現実には対立が起こってくるのです。そのことを聖書は見逃しませんでした。


聖書は分裂を隠しません。分裂ばかりを強調するのは危険なことですが、それ以上に怖いことは、分裂を恐れるあまり、分裂などなかったかのように扱うことです。私たちの社会でもこれまでなかったことにされてきた、今もなかったことにされている問題というのはたくさんあります。性の多様性の問題、少数民族の問題、人種差別の問題。そういったことに苦しむ人がいないかのように世の中が回っていって、そういう分裂がなかったかのように、そういう人たちがもとから存在しなかったかのように扱うというのは人間が繰り返してきた大きな過ちの一つです。


教会でもそうかもしれません。「家族仲良くみんなで教会行くのが最高」みたいなことはやたらと言いますが、そこから漏れている誰か、そこから漏れている自分、のことを私たちはないがしろにしてこなかったでしょうか。家族が信仰を理解してくれないこともそうですし、離婚も、親を愛せないことも子どもを大事にできないことも、そういう「平和じゃない」あらゆること、人生に刻まれている大小さまざまな分裂や対立が、教会ではなかったことになっていないでしょうか。


聖書は分裂から目を背けることがありません。イエス様が到来した結果、分裂は確かに起こると語られているのです。ですから教会は分裂を経験している人が来てもいい場所ですし、誰かと対立している自分自身を神様の前にさらけ出していい場所であるのです。


分裂を経験した家族の例として、冒頭で触れたロトの物語を取り上げたいと思います。ソドム滅亡の物語は創世記19章に収められていますが、ここでロトの家族は分裂を経験しています。ある日ロトは、自分とその一族が住むソドムという町が主によって滅ぼされるというお告げを受けました。そこでロトは身内の人たちを訪ねて一緒に逃げるように促しますが、ロトのお婿さんたちはそんなの冗談だと思ってロトに取り合いませんでした。彼らは逃れなかったので滅ぼされてしまった(死んでしまった)のです。


お婿さんとそこに嫁がせた娘たちを失ったロトは、結局妻と二人の娘とともに逃げます。しかし妻は逃げる途中で後ろを振り返ってはいけないという戒めを守らずに、逃げながら後ろを振り向きました。すると妻は塩の柱になったとあります。こうしてロトの家族は分裂し、結局救い出されたのはロトと未婚の娘二人だけでした。


この時ロトは自ら家族に分裂を起こそうとしたでしょうか。そうではないと思います。神のお告げをどの程度重んじるかということが、結果的にロトの家族を分裂させたのです。ロトはお告げを絶対のこととしてそれを守りましたが、それを冗談だと思った婿たちや、言いつけに背いて後ろを振り返った妻を、失うことになりました。神に従った結果こうなったということです。


ロトの物語は、家族の分裂を、なかったこととして覆い隠したりしませんし、いけないものとしてジャッジするわけでもありません。「みんな一緒に仲良く逃げましたと」とか「家族を分裂させたロトは悪い人だった、もっとできることがあったはずだ」とか、書かれているわけではないのです。ロトの家族の物語は、聖書には家族円満、平和なことだけが書かれているわけではないということの一つの例でありましょう。


平和は望ましいことです。私たちはいつでもそれを求めています。しかし一方で、イエス様は分裂をもたらすために来たと語られます。人の間には必ず対立が起こると言われます。そうであるとすれば、私たちが経験する分裂も、望ましいものではないとしても隠すものではないし、むしろ分裂をなかったことにせずに神の御手にゆだねることが必要なのではないでしょうか。


イエス様ご自身もまた、十字架におかかりになる時、分裂を経験されました。弟子たちに裏切られ、同胞のユダヤ人たちに見捨てられたのです。この大きな分裂を経験された神こそが、私たちの信じるイエス様です。イエス様が十字架という分裂を経験されることによってもたらしてくださった平和に、私たちはあずかっているのです。


ですからイエス様が私たちに望んでおられるのは人生で一度も分裂や対立を経験しないことではありません。そうではなくて、分裂や対立を経験した時に、それでもイエス様が和解と平和をもたらしてくださると信じることを、そういう時こそイエス様に頼ることを、神様は私たちに望んでおられるのです。私たちに必要なのは分裂を隠すことではありません。むしろそれを神様の御前に告白し、神様にすべてをゆだねることです。


教会は幸せを分かち合う場所であると同時に不幸せを分かち合う場所であり、喜びを分かち合うと同時に悲しみを分かち合う場所です。平和な時も、分裂の時も、私たちは神様の御前に集い、神様にすべてをゆだねて、お互いに支えあっていきたいと思います。

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