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信じる力

2021年4月18日 復活節第3主日

ルカによる福音書24章36~48節


福音書  ルカ24:36b~48 (新161)

24:36b「あなたがたに平和があるように」と言われた。 37彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。 38そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。 39わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」 40こう言って、イエスは手と足をお見せになった。 41彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。 42そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、 43イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。

44イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」 45そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、 46言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。 47また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、 48あなたがたはこれらのことの証人となる。


先週に引き続き、復活節の期節を過ごしています。復活節は、イエス様の復活を祝い、喜びと平安のうちに過ごす期間です。先週私たちが聞いたのは、イエス様の復活を疑っていたトマスがイエス様の助けによってその疑いを乗り越えたというお話でした。今日お読みしたルカ福音書の24章においても、復活に対する疑いと、それに手を差し伸べられるイエス様が描かれています。


ルカ福音書において、復活したイエス様はエマオへの道で二人の弟子たちに現れ、その後弟子たち一同に現れます。弟子たちがどこかに集まってエマオで起こったことについて話していると、イエス様が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われたのです。「平和があるように(シャローム)」というのはユダヤにおけるあいさつの言葉です。


弟子たちは復活のイエスを目の前にして恐れます。恐れおののき、亡霊を見ているのだと思いました。死人が肉体を持たない形で再び姿を現すという思想は日本も含めて多くの文化に見られるものです。ユダヤ教の神学はこのことを認めておらず、死人と交信することも禁止していますが、少なくとも民間のレベルではそのような言い伝えが存在していました。


復活に対する最初の反応が恐怖であったということは私たちがイースターに読んだマルコ福音書にも記されています。マルコ16章8節には「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」とありましたね。起こるはずのないことが起こった時、それがたとえ喜ばしいことであったとしても、人は恐怖を感じるのです。


そんな弟子たちを見てイエス様は「なぜ、うろたえているのか…わたしの手や足を見なさい」と言われます。イエス様は自らが幽霊ではなく、肉体を持ってよみがえられたことを強調し、弟子たちに触ってよく見るようにと言うのです。イエス様の手や足には十字架の釘跡がありました。それをお示しになることによって、イエス様はご自分が彼らの主、十字架で死んだ神の子イエスであることを証しされます。


しかしイエス様がご自分の手と足をお示しになってもなお、弟子たちは確信できないでいました。彼らは恐れ、驚き、喜びが一体となった複雑な感情を味わっていたのです。そこでイエス様は「ここに何か食べ物があるか」と言われます。弟子たちが焼いた魚を差し出すと、イエス様はそれを弟子たちの目の前で食べられました。弟子たちの目の前で魚を食べることで自らが肉体を持ってよみがえられたことを証しされたのです。


イエス様は弟子たちが復活を信じられるように、これらのことをしてくださいました。初めイエス様のことを亡霊だと思っていた弟子たちは、イエス様が復活されたことを信じ、喜びました。使徒言行録によればイエス様は再び天に上げられるまで40日間にわたって弟子たちに姿を現されたとあります。その間イエス様は亡霊のようにではなく、以前とまったく変わらない姿で弟子たちに現れてくださったのです。


さらにイエス様は弟子たちに「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。」と語られます。「モーセの律法と預言者の書と詩編」とはすなわち聖書全体のことであり、イスラエルが待ち望んでいたメシアがイエスであって、イエスについて書かれたことはすべて成就するということが告げられています。


そしてイエス様は聖書を悟らせるために弟子たちの心の目を開きます。弟子たちが信じるようになる時、そこにはイエス様の助け、神の恵みが働いているのです。イエス様が現れ、食事することで復活を証ししてくださったこと、イエス様自らが聖書を教え、弟子たちの心の目を開いてくださったこと。こんなにたくさんのことをイエス様がしてくださって初めて、弟子たちは復活を信じ、聖書を悟ることができるようになりました。


信じる力は、神様の恵み、イエス様の助けがあって、初めて私たちのうちに生まれます。聖書が記されたのは、それが最初の弟子たちだけにただ一度起こったのだということを伝えるためではありません。そうではなくて、その同じ奇跡がこれを読む一人ひとりに起こっているということ、同じ恵みが私たち一人ひとりに注がれているということ、それらのことを伝えるために聖書はあるのです。


イエス様は弟子たちに、復活の体をよく見て触れてみるように言われました。見る、触る、といった五感は私たちの信仰を形作る重要な要素です。私たちが目にする期節ごとの典礼色、聖書の手触り、礼拝の時に鳴らす鐘の音、こうしたものが少しずつ積み重なって、私たちの信仰になっていきます。さらにイエス様は弟子たちの心の目を開いて聖書を悟らせてくださいました、私たちが聖書を読む時も、同じ恵みが与えられています。私たちの心の目が開かれるように、見えない力が働いているのです。イエス様は弟子たちの信仰のために様々なことをしてくださいました。私たちの信仰のためにも、イエス様はたくさんのことをしてくださっています。


これからペンテコステまでの間、復活節の時を過ごします。イエス様の復活を祝う時、聖書を読む時、教会に来る時、私たちの信仰は神様の見えない恵みによって支えられています。そのことを信じて、また来週ここに集いたいと思います。

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