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主の変容

2024年2月11日 主の変容

マルコによる福音書9章2~9節

 

福音書  マルコ 9: 2~ 9 (新78)

2六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、 3服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。 4エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。 5ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」 6ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。 7すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」 8弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。

9一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。

今日は主の変容の主日です。イエス様が弟子たちを連れて高い山に登られ、そこでイエス様の姿が光り輝く姿に変わったという出来事を記念する日です。主の変容の主日は一年に一回祝われますが、この主日が一年のうちのどこに来るかを正確に記憶されている方はあまり多くないと思います。答えは、顕現節の終わり、四旬節の直前です。私たちはこれまで5週にわたって顕現後の主日を過ごしてまいりました。顕現後の主日というのは、イエス様の栄光が世の中にはっきりと示されるということが強調される期間です。ですから私たちはイエス様の行われた奇跡的なわざ、すばらしい教え、イエス様が本当に神の子であり特別なお方であったということを、聖書を通して聞いてきました。


今日の福音書の朗読は、マルコ福音書9章から始まります。その直前にイエス様はフィリポ・カイサリア地方に行かれ、そこでペトロの信仰告白を受けました。弟子の代表者であるシモン・ペトロがイエス様に対して「あなたは、メシアです」と自らの信仰を言い表したのです。それを受けてイエス様はご自分の死と復活を初めて予告されます。今日の物語はその6日後、イエス様は限られた弟子(ペトロ、ヤコブ、ヨハネ)だけを連れて高い山に登られました。山に登るとイエス様の姿が変わり、服が真っ白に輝き始めました。「変わり」と訳されているメテモルフォーセーというギリシア語は受動態であり、イエス様の姿が神によって「変えられた」ことを示唆しています。


弟子たちが戸惑っていると、さらにそこにエリヤとモーセが現れます。エリヤとモーセは旧約聖書の伝説的英雄、それぞれ預言者(エリヤ)と律法(モーセ)を象徴する人物です。彼らの登場はイエス様の役割が旧約聖書に書かれていることの成就であることを暗示しています。つまり、旧約聖書の時代から語られてきた神様の御心を完成するためにイエス様がこの世に来られたということです。この時エリヤとモーセがイエス様と何を話したのかは記されていませんが、ルカ福音書の同様のエピソードでは「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期」について語り合っていたと説明されています。あまり楽しい話ではなさそうです。


この様子を目にした弟子たちは驚き、恐れました。そんな中で、ペトロが弟子たちを代表して口を開きます。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう・・・。」ペトロは仮小屋を三つ建てることを提案しました。仮小屋とは古代イスラエルの仮庵祭(秋の収穫祭)で用いられた「タバナクル」と呼ばれるテントのことです。これは出エジプトの時イスラエルの民が仮庵に住んだことを語り継ぐための規定で、七日間の祭りの間、人々は家に帰らず仮庵を建ててそこに住みました。ペトロの発言の真意は定かではありませんが「祝い」「記念」の意味を込めての提案であったと思われます。


ペトロの発言の真意は定かではないと申し上げましたが、6節を見るとそもそもペトロ自身、「どう言えばよいのか、わからなかった」と記されています。私たちも聖書を読んでいてこういう気持ちになることがあると思います。神様のなさることに正確にコメントする、気の利いた答えをする、あるいは無難な反応をする、というのはいずれも難しいことです。


不思議な出来事はこれで終わりません。さらに雲が現れ、彼らを覆います。雲は神の臨在(神がそこにおられること)を象徴する自然現象です。出エジプトの時、雲はイスラエルの民を導き、シナイ山に主がとどまっていることのしるしとなり、幕屋に主がおられることのしるしとなりました。また列王記上8章には主は雲と共にソロモンの神殿にとどまられたとありますし、さらに詩編68編において神は「雲を駆って進む方」と表現されています。雲があるところには神様がおられるのです。


そんな雲の中から「これはわたしの愛する子。これに聞け。」という声が聞こえます。「これはわたしの愛する子」という言葉はイエス様の洗礼の時に天から聞こえた言葉と同じです。さらに声は「これに聞け」と弟子たちに告げます。イエス様は神の子であるのだから、弟子たちはこれに聞き従わなければならないということが言われています。弟子たちは声の正体を確かめようと周囲を見回しましたが、誰も見つけることができませんでした。モーセとエリヤも去り、ただイエス様だけが彼らと共におられました。そしてイエス様は「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられます。秘密が解かれるのはイエス様が死んで復活した後のことです。この頃からイエス様はご自分が死ななければならないということを弟子たちに明言されるようになりました。


ここまでが今日の福音書のお話しです。主の変容の主日は顕現節の終わり、四旬節の直前に来るように定められています。つまり、イエス様の栄光を証しするとともに、イエス様の遂げられる十字架の死と復活を暗示するのがこのエピソードです。私たちはこれまでクリスマスを祝い、主の洗礼から始まる顕現後の期節においてイエス様の栄光、力、すごさについて聞いてきました。それを改めて確認したうえで、しかしそのような栄光に満ちたイエス様が十字架というむごい方法で死なれ、そして復活されたということを知る期節にこれから入っていきます。


ですから今日は受難週、イースターに向けての転換点です。光から闇へ、栄光から苦しみへ、そういった転換点としての主の変容の物語を聞く時に、私たちはペトロと他の弟子たちのように、「どう言えばよいのかわからない」という思いにとらわれるかもしれません。神様のご計画、神様のなさることに、人間が100点満点の反応をするというのは不可能だからです。しかし雲の中から神の声が語るように、「イエス様に聞く」ということが私たちに求められていることです。今週の水曜日からは四旬節に入ります。栄光に満ちたイエス様が十字架で死なれて、再び栄光のうちに復活されるまでの物語をこれからご一緒に聞いてまいりましょう。



2月11日 教会の祈り

 

全能の神様。1月1日に能登半島で大きな地震が発生しました。今も不自由な生活を送っておられる方々の安全と健康をお守りください。「能登半島地震被災地ディアコニア募金」を先週送金しました。私たちが捧げたものが少しでも役に立ちますように祈ります。

 

主なる神様。今週の水曜日は灰の水曜日です。私たちはこの週から四旬節を迎えようとしています。イエス様のご受難をおぼえるこの期間、私たちを謙遜にして、祈りのうちに過ごさせてください。

 

恵みの神様。病を負う人のために祈ります。どうかそのような方の痛みと苦しみ、不安と恐れをあなたが和らげてください。あなたの癒しの御手が、信じる者の心と身体に及びますように。

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