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三位一体

2023年6月4日 三位一体

マタイによる福音書28章16~20節 


福音書  マタイ 28:16~20 (新60)

16さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。 17そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。 18イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。 19だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、 20あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」


今日は三位(さんみ)一体(いったい)の主日です。三位一体はキリスト教の最も重要な教義の一つで、父、子、聖霊がそれぞれ真(まこと)の神であり、なおかつただひとりの神であるということを指しています。このことをおぼえる三位一体の主日は、数ある教会の祝祭日の中で、人や出来事ではなく教義そのものを記念している珍しい主日です。私は毎年三位一体主日が来るたびに三位一体という教義についてくどくど説明していて恐縮なのですが、しかし三位一体の日に三位一体以外の話をするというのも変かなと思うので、やっぱり今年も同じような話をします。


「三位一体」という言葉は、実は聖書には一度も登場しません。しかしながら、伝統的に三位一体の根拠として用いられる聖書の箇所が二つあります。今日の福音書の日課であるマタイ福音書28章19節(父と子と聖霊の名によって洗礼を授け)と、第二の日課である第二コリント13章13節(主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように)です。いずれも父・子・聖霊が並列に語られていて、聖書のなかでこの二つの聖句だけが、直接的に三位一体を表わしている聖書の箇所です。


さらに間接的に三位一体を指し示すような聖句が複数あって、例えば今日の第一の日課である創世記1章26節において神は「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう」と言われています。唯一の神である創造主が自らを指して「我々」と言っていることから、この言葉は子と聖霊は創造のはじめから父と共にいたという教えの根拠となってきました。


「三つであり一つ」「区別されるが分かたれることはない」という三位一体の教えは、意味不明と言えば意味不明で、人間がそれを具体的に心に思い描くというのはほとんど不可能なことです。それでもこのことをわかりやすく表現するために、三位一体について古来様々なたとえがなされてきました。そういったたとえは三位一体という概念に親しむためには大いに役立つものである一方、いずれも厳密には誤りであると言われています。私はこれまでこのたとえの話を詳しくしたことがなかったと思うので、今日はそれを紹介したいと思います。


最初の有名なたとえは水の三態です。水は液体である水の時も、個体である氷の時も、気体である水蒸気の時も、いずれも同じ「水」という物質です。このたとえは父、子、聖霊という一見異なる存在が、いずれも真(まこと)の神であるということを理解するのに役立ちます。しかし三位一体は水の三態と同じではありません。水というのは同時に液体であり個体であり蒸気であることはできないからです。それに対して神様は同時に父であり子であり聖霊であることができるお方です。


次の有名なたとえはひとりの男性が同時に父であり息子でありおじであるというたとえです。(一人の女性が同時に母であり娘でありおばである、でもよいです。)同じ一人の男性は、その人の子から見れば父、その人の父から見れば息子、その人の甥や姪から見ればおじであると言うことができます。このたとえは一つの神が同時に父であり、子であり、聖霊であることができるということを理解するのに役立ちます。一方で三位一体の神は、一つの神が見る人の立場によって三通りに見えるということとは異なります。父、子、聖霊は、一つのものが見方によって三通りに見えているのではなくて、もともとそれぞれが独立し区別される存在です。


最後の有名なたとえはクローバーのたとえです。(シャムロックのたとえとも言います。クローバーとシャムロックは同じものです。このたとえを考案した聖パトリックはアイルランドで宣教した人ですが、アイルランドの言葉ではクローバーのことをシャムロックと呼びます。)クローバーというのは三つの葉が合わさって一つのクローバーを作っています。父、子、聖霊三つでありながら一つであることをわかりやすく教えてくれるたとえです。このたとえの問題点は、クローバーの一つ一つの葉はそれ自体完全なクローバーではないということです。クローバーの葉は一枚ではただの葉っぱで、三つが合わさらないと完全なクローバーにはなりません。しかし三位一体の神は、三つが合わさっていることは確かですが、それぞれが三分の一ずつ神ということではなくて、それぞれが完全な神です。父なる神も、子なる神も、聖霊なる神も、それぞれ互いに補完し合う必要のない神であるというのが教会の言い分です。


このように三位一体を表わすいくつかの代表的なたとえをご紹介しましたが、これを聞いても、まだよくわからない感じがすると思います。三位一体というのは聖書で明らかにされている神の在り方であるのと同時に、人間の理解や想像を超えた神の在り方であるからです。三位一体はそもそも、教会がその経験の中で獲得してきた、神についてのひとつの説明です。ユダヤ教の時代から、「神は唯一である」ということ、そして「父なる神は神である」ということが広く理解されてきました。時代が下るにつれて、「子なるキリストは神である」ということ、「聖霊なる神は神である」ということもそれぞれ確かだということが確認されて、では父も子も聖霊も神で、なおかつ神が唯一であるということは、それはどうやって説明すればいいんだ、父と子と聖霊の間にはどういう相互関係があるんだ、ということで形作られていったのが三位一体という教義です。三位一体は、経験することはできても理解することはできず、人間世界の何かに「似ている」ことはあっても「同じである」ことはない、何かにたとえることができそうであってできない、そのような極めて神秘的な神様の在り方です。


神は三つであり、一つであるお方です。父なる神は神であり、子なるイエスは神であり、聖霊なる神は神であり、そして神は唯一のお方です。それが、すなわち、三位一体です。神はこのような在り方で私たちにご自分をあらわされ、教会はその神の在り方を体験してきました。この神秘を自然に心に思い描くのは難しいことですが、キリスト教徒はそれでも、この三つで一つの神を信仰しています。今日ここで礼拝する私たちもそのひとりです。父、子、聖霊の神の栄光が、この世界でますますあらわされますように祈ります。

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