すごい力2021年1月31日 顕現後第4主日マルコによる福音書1章21~28節 「すごい力」福音書 マルコ1:21~28(新62)21一行はカファルナウムに着いた。イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた。 22人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。 23そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。 24「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」 25イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、 26汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。 27人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」 28イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった。先週私たちは、イエス様がガリラヤ湖で最初の弟子たちを招かれた物語を聞きました。イエス様がシモンとアンデレ、ヤコブとヨハネに声を掛けると、彼らはすぐにイエス様についていったというお話でしたね。今日の聖書の物語では、イエス様は彼らを連れてカファルナウムに行かれます。カファルナウムはガリラヤ湖北西に位置する町で、ガリラヤ地方の中では主だった町の一つでありました。人口約1万、ナザレの人口が500人と言われていますから、当時としては目立って大きな町です。イエス様はそんなカファルナウムの町で、安息日に会堂に入って教えておられました。「会堂」というのは人々の集会、また集会のための場所を指します。安息日に人々は会堂に集って聖書の朗読を聴き、律法と預言者について学び、祈りを捧げて、祝福を受けました。イエス様が大きな町の会堂で、大勢の人々の前で教えておられる姿が目に浮かびます。イエス様の初期の活動拠点は会堂でした。福音書の最初のほうを見ると、イエス様がガリラヤ地方の会堂を回って教えておられたことがわかります。しかしお育ちになられたナザレの会堂で人々に拒絶されて以降、イエス様の教えの場は会堂から家へと移っていくことになりました。イエス様がまだ会堂で教えておられた頃、人々はその教えに非常に驚いたと聖書は記しています。それはイエス様が「律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになった」からでした。そういうあいまいな書き方じゃなくて、イエス様が実際になんとおっしゃったのか詳しく書いておいてくれたらいいのに…と思ったりもしますが、ともかく人々は、イエス様の教えから律法の専門家を超えるような権威、説得力を感じていたのです。律法学者たちは律法の教師の下で学んだ律法の専門家でありましたが、それでも神の子であるイエス様の教えには、彼らの教えを凌駕する権威がありました。これに続けて、今日の聖書の物語は、イエス様が汚れた霊を追い出されたというエピソードを記しています。イエス様は教えにおいて力あるお方であるとともに、行いにおいても力あるお方であったのです。「汚れた霊」というのがどういうものか、私たちにとっては少し想像がしづらいですが、「汚れた霊」は神に敵対する存在、悪なるものや不浄なものを指しています。聖書の時代、人間には説明することのできない病気や災いはこの「汚れた霊」が引き起こしていると考えられていました。汚れた霊に取りつかれた男はこう言って叫びます。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」汚れた霊は一方で、イエス様が誰であるかを正しく見抜きます。肉体を持たない彼らは、人間よりもはるかに正確にものごとを見通すことができるのです。その汚れた霊をイエス様はお叱りになります。「黙れ。この人から出ていけ」。そのたったの一言で汚れた霊は取りついていた人から出ていきました。奇跡的な癒しの業、力強い悪霊払いです。汚れた霊が悪いことを引き起こすという民間信仰があったと先ほど申し上げましたが、それに伴ってこの時代にも悪霊払いを行う人たちが存在していました。通常、古代世界における悪霊祓いは長時間にわたって行われるもので、悪霊祓いを行う人はさまざまな式文を延々と唱えるというのがその方法であったと言われています。しかしイエス様はそれをたったの一言で追い出された。さらに悪霊は最初からイエス様を恐れて神の聖者だとか言っている。人々が皆驚いて論じ合ったと書かれているのも自然なことだと思います。こうして人々はイエス様のことをうわさするようになります。イエス様がその教えにおいても、さらに行いにおいても、驚くべき力を発揮されるお方であったからです。これまで見てきたどんな指導者とも違う、すごい力をお持ちであったからです。イエス様が会堂で実際になにをおっしゃったのか、今ここにいてくれたらどんな奇跡を起こしてくださるのか、それは残念ながらわかりません。しかし聖書を読んで信仰生活を送っていく中で、同じイエス様の教えと力とが私たちにも届いていることを感じていきたいと思います。そしてイエス様の教えと力に驚いたのは、よくわからないままついてきた弟子たちも同じでありました。招かれて弟子になったとはいえ、彼らはイエス様のことを何も知らなかったのです。私たちも同じように、こうしてイエス様を慕って教会に集っていますが、イエス様についてすべてを理解しているわけではありません。しかしだからこそ、弟子たちが感じたような驚きや感動が、きっと私たちの信仰生活にも用意されています。来週も引き続き、イエス様のガリラヤでの伝道について聞いてまいりましょう。
2021年1月31日 顕現後第4主日マルコによる福音書1章21~28節 「すごい力」福音書 マルコ1:21~28(新62)21一行はカファルナウムに着いた。イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた。 22人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。 23そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。 24「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」 25イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、 26汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。 27人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」 28イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった。先週私たちは、イエス様がガリラヤ湖で最初の弟子たちを招かれた物語を聞きました。イエス様がシモンとアンデレ、ヤコブとヨハネに声を掛けると、彼らはすぐにイエス様についていったというお話でしたね。今日の聖書の物語では、イエス様は彼らを連れてカファルナウムに行かれます。カファルナウムはガリラヤ湖北西に位置する町で、ガリラヤ地方の中では主だった町の一つでありました。人口約1万、ナザレの人口が500人と言われていますから、当時としては目立って大きな町です。イエス様はそんなカファルナウムの町で、安息日に会堂に入って教えておられました。「会堂」というのは人々の集会、また集会のための場所を指します。安息日に人々は会堂に集って聖書の朗読を聴き、律法と預言者について学び、祈りを捧げて、祝福を受けました。イエス様が大きな町の会堂で、大勢の人々の前で教えておられる姿が目に浮かびます。イエス様の初期の活動拠点は会堂でした。福音書の最初のほうを見ると、イエス様がガリラヤ地方の会堂を回って教えておられたことがわかります。しかしお育ちになられたナザレの会堂で人々に拒絶されて以降、イエス様の教えの場は会堂から家へと移っていくことになりました。イエス様がまだ会堂で教えておられた頃、人々はその教えに非常に驚いたと聖書は記しています。それはイエス様が「律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになった」からでした。そういうあいまいな書き方じゃなくて、イエス様が実際になんとおっしゃったのか詳しく書いておいてくれたらいいのに…と思ったりもしますが、ともかく人々は、イエス様の教えから律法の専門家を超えるような権威、説得力を感じていたのです。律法学者たちは律法の教師の下で学んだ律法の専門家でありましたが、それでも神の子であるイエス様の教えには、彼らの教えを凌駕する権威がありました。これに続けて、今日の聖書の物語は、イエス様が汚れた霊を追い出されたというエピソードを記しています。イエス様は教えにおいて力あるお方であるとともに、行いにおいても力あるお方であったのです。「汚れた霊」というのがどういうものか、私たちにとっては少し想像がしづらいですが、「汚れた霊」は神に敵対する存在、悪なるものや不浄なものを指しています。聖書の時代、人間には説明することのできない病気や災いはこの「汚れた霊」が引き起こしていると考えられていました。汚れた霊に取りつかれた男はこう言って叫びます。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」汚れた霊は一方で、イエス様が誰であるかを正しく見抜きます。肉体を持たない彼らは、人間よりもはるかに正確にものごとを見通すことができるのです。その汚れた霊をイエス様はお叱りになります。「黙れ。この人から出ていけ」。そのたったの一言で汚れた霊は取りついていた人から出ていきました。奇跡的な癒しの業、力強い悪霊払いです。汚れた霊が悪いことを引き起こすという民間信仰があったと先ほど申し上げましたが、それに伴ってこの時代にも悪霊払いを行う人たちが存在していました。通常、古代世界における悪霊祓いは長時間にわたって行われるもので、悪霊祓いを行う人はさまざまな式文を延々と唱えるというのがその方法であったと言われています。しかしイエス様はそれをたったの一言で追い出された。さらに悪霊は最初からイエス様を恐れて神の聖者だとか言っている。人々が皆驚いて論じ合ったと書かれているのも自然なことだと思います。こうして人々はイエス様のことをうわさするようになります。イエス様がその教えにおいても、さらに行いにおいても、驚くべき力を発揮されるお方であったからです。これまで見てきたどんな指導者とも違う、すごい力をお持ちであったからです。イエス様が会堂で実際になにをおっしゃったのか、今ここにいてくれたらどんな奇跡を起こしてくださるのか、それは残念ながらわかりません。しかし聖書を読んで信仰生活を送っていく中で、同じイエス様の教えと力とが私たちにも届いていることを感じていきたいと思います。そしてイエス様の教えと力に驚いたのは、よくわからないままついてきた弟子たちも同じでありました。招かれて弟子になったとはいえ、彼らはイエス様のことを何も知らなかったのです。私たちも同じように、こうしてイエス様を慕って教会に集っていますが、イエス様についてすべてを理解しているわけではありません。しかしだからこそ、弟子たちが感じたような驚きや感動が、きっと私たちの信仰生活にも用意されています。来週も引き続き、イエス様のガリラヤでの伝道について聞いてまいりましょう。
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