神の国
2021年6月13日 聖霊降臨後第3主日
マルコによる福音書4章26節~34節
福音書 マルコ4:26~34 (新68)
4:26また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、 27夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。 28土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。 29実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」
30更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。 31それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、 32蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」
33イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。 34たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。
今日の福音書の日課はマルコ福音書4章です。洗礼者ヨハネから洗礼を受け、ガリラヤで伝道を始められたイエス様は、弟子たちを招き、多くの病人を癒されました。そして4章では、さまざまなたとえを用いて信仰や神の国について人々に教えておられます。マルコ福音書にはイエス様はすべてのことをたとえによって教えられたと書かれています。イエス様がたとえを用いられたのは神の国の秘密を聞く人の力に応じて教えるためでした。ちなみに神の国とは、神がもたらされる神の支配する世界、あるいは神の力の及ぶ範囲、という風にとらえておきましょう。
今日語られた一つ目のたとえは、「成長する種のたとえ」です。「人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。」とイエス様は語られます。種を蒔くだけ蒔いたら、あとは夜昼寝起きしている(ユダヤの文化では一日は夜から始まるのでこういう表現になります)うちに、勝手に実がなるだろうというのです。実際の農業はそんなに簡単なものではないと思いますが、しかしここでイエス様が言われているのは、種を成長させ実を結ばせるのは、究極的に言えば自然そのものの力だということです。
そして神の国はそのようなものであるとイエス様は言われます。神の国は人の手によらず、神の力で成長し完成するものです。収穫は確実にもたらされますし、すべては神がなされるのですから、人はそれを自らそれをたぐりよせる必要はありません。イエス様の時代には、神の国を自分たちの力で来たらせなければならないと考えている人たちがたくさんいました。例えば、革命によって物理的に神の国を建設しようとする熱心党と呼ばれる人々や、律法遵守によって神の国の到来を早めようとするファリサイ派の人々などがそうです。しかし人間に求められているのはただ神への信頼であり、神が成し遂げてくださることを待ち望むことであると、イエス様は教えられます。
続けてイエス様は「からし種のたとえ」を語られます。「神の国は、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、 蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなる」と説明をされます。からし種が小さい、ということはパレスチナではよく知られていたようです。からし種は当時から味付けに使用されており、主にガリラヤ湖沿岸で栽培され、180㎝ほどの高さに成長しました。からし種はまた、急速に発芽する繁殖力の強い植物でもありました。
イエス様はそんなからし種に神の国をたとえておられます。神の国は、始まりは小さくても最後には大きく成長するというのです。どんな種よりも小さいからし種がどうして木のように大きく成長するのか、人間にはよくわかりません。それは不思議であり、神秘です。同じように神の国の成長がいつどうやって起こるのか、どうしてそんなに大きくなるのか、人間はその仕組みを理解することができません。神の国は今この瞬間も確実に成長していますが、私たちはただそれを驚きつつ受け入れるしかないのです。
私たちの目にも、神の国はいかにも小さく見えます。この地上には悪が生き生きと成長しているように見えますし、また神の国に属する私たちの祈り、私たちの信仰、私たちの行いも、本当に取るに足りない小さなものだなあと感じます。神様の世界も私たちの信仰も、成長してるのかしてないのかよくわからないと思ってしまいます。それでもイエス様がおっしゃるのは、神の国は確かに成長しているということです。神の国に属する私たちも、日々新しくされ、霊的に成長しています。しかし人間にはその実感がありません。神の国の成長は、人間の知らないところで、人間の知らないやり方で起こるからです。私たちはそれでも焦らずに、神様がなさってくださることに信頼して歩み続けていくしかないのです。
続けてマルコ福音書には、イエス様は人々の聞く力に応じて語るために、このようにたとえを用いて語られたと書かれています。人々にはイエス様のおっしゃっていることを理解し受け入れる力がありませんでした。さまざまな思い込みと常識にとらわれている彼らにとって(そして私たちにとって)、神の国のお話はあまりに難しかったからです。しかしイエス様は彼らに教えることをおやめになりませんでした。むしろ人間の盲目と無理解に寄り添って、人々の聞く力に応じた語り方をされたのです。
一方でイエス様はご自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明されたとも書かれています。弟子たちのそばにはいつもイエス様がおられたので、彼らはたとえを介しなくてもイエス様の助けによって真実を悟ることができました。このように、群衆にせよ弟子たちにせよ、イエス様が聞く力に応じて語ってくださるか、イエス様がそばにいて助けてくださるのでなければ、人は神の国についての教えを理解することはできません。
私たちは引き続き長い聖霊降臨後の期節を過ごしてまいります。聖書の言葉を聞いて、神の国を待ち望む期節です。そんな時、いつもイエス様は私たちの聞く力に応じて語ってくださっていますし、また私たちと共にいて、私たちが聖書を悟るようにいつも助けてくださっています。イエス様と共に歩みつつ、神の国が今も確実に成長しているということ、私たちの信仰が実を結ぶ日が来るということを信じてまいりましょう。
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