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救われたい

  • jelcnogata
  • Aug 15, 2020
  • 5 min read

2020年8月16日 聖霊降臨後第11主日

マタイによる福音書15章21~28節

今日の福音書の日課では、イエス様の最初の異邦人に対する救いの出来事が語られています。聖書の時代、イスラエルの人々は自国民(ユダヤ人)と外国人(異邦人)を厳密に区別して、ユダヤ人のみが救われるということを当然のこととして信じ、望んでいました。イスラエルの民の特別さと、救いの優先性は、旧約聖書全体を貫くひとつの真理です。しかし今日の聖書の日課はどれも、異邦人も救われるということを明言しています。イザヤ書では「異邦人が主に仕えるなら主はそれを受け入れる」ということが語られていますし、ローマの信徒への手紙ではパウロが「異邦人も神に招かれている」と記しています。そしてマタイ福音書15章ではカナンの女がイエス様によってその信仰を認められ、娘の病気を癒してもらったというエピソードが語られています。聖書の時代、「誰が救われるか」、つまり誰が癒しや奇跡を受け取ることができるか、そして誰が永遠に神様のものにしていただけるか、ということは人々の大きな関心事でした。ですからその問いが預言者によって語られ、パウロによって考察され、そして福音書記者にカナンの女の物語を語らせたのです。

私たちは普段教会に来ていて、「私はユダヤ人じゃないけど救われるだろうか」とか深刻に考えることはあまりないと思います。信じて洗礼を受けたあなたは救われますよと言っていただいているわけですし、救いの確実さとかそんなことをいちいち気にしていたら精神が持ちませんよね。だから普段は深く考えることなく過ごしていると思います。(そしてそれは別に悪いことではないと思います。例えば人はみんないつか死にますが、私たちは死ぬことばかり考えて生きているわけではありません。この地上に生まれてきたからには、考えたらきりがないようなことは深く考えずに、ある程度地に足をつけて日常を生きていく必要があるわけです。)しかしこのお盆の季節、キリスト教に触れることなく天国に行った家族のことなんかを思うと、私たちもふと「誰が救われるのだろうか」と考えてしまいます。私のことを、神様は顧みてくださるだろうか、信仰を持っていないあの人はどうなるだろうか、と思ってしまうことがあるかもしれません。

カナンの女の物語は、異邦人に対する最初の救いの出来事と申し上げました。このときイエス様が行かれたティルスとシドンという土地は地中海に面した町で、ガリラヤの北に位置します。カナンというのはそのティルスやシドンがあるあたりの古い地名で、カナン人というのはそこに住む異教の、ユダヤ人ではない人々を指していました。このように、イエス様から見て外国人であったこのカナンの女性は、イエス様に助けを求めます。娘が悪霊に苦しめられていて、困っていたのです。そんな彼女をイエス様ははじめ無視し、さらに彼女に向かって「私はイスラエルの家の失われた羊にしか遣わされていない」と言われます。つまりイエス様は、イスラエルの家の失われた羊、ユダヤ人しか相手にするつもりはないと、外国人であったこの女性に言うのです。

それでもあきらめないカナンの女に対し、イエス様はさらに「子どものたちのパンを取って子犬にやってはいけない」とまで言われます。子どもたち、つまりユダヤ人に与えられている救いを取り上げて、それを異邦人に与えることはできないとイエス様は言われたのです。犬というのはユダヤ人にとって異邦人を指す言葉で、当時ペットを飼う習慣のなかったイエスを含むユダヤ社会の人にとっては人を軽蔑していう言葉でありました。それでも女性はあきらめません。「しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます」と答えます。彼女はイエス様を信じたばかりか、その恵みがパンくず程度のわずかなものであっても、彼女と彼女の娘を救うのに十分であるということを知っていました。神の恵みの力はそれほど大きいということをこの女性は信じていたのです。それはユダヤ人にも見出すことのできないほどの深い信仰でした。その結果ついにイエス様は「婦人よ、あなたの信仰は立派だ」と言われ、この女性が望んだとおり彼女の娘を癒してくださったのでした。

異邦人であっても、信仰によって救われるということがこの出来事から明らかになります。イエス様を信じてそれを言い表す人は、イエス様に顧みてもらうことができて、願いをかなえていただくことができるのです。ですからこうして教会に集う私たちのことをイエス様は顧みてくださっています。そして今日私たちはもう一つのことに注目したいと思います。それは、カナンの女の娘も癒されたということです。カナンの女は異邦人でありましたが信仰がありました。しかしこの女性の娘はどうでしょうか。異邦人である上に、別にイエス様を信じていたわけではありません。もしかしたら母親からイエス様のことを聞いていたかもしれませんが、聖書の記述からは彼女が信仰を持っていたということは読み取れません。イエス様もカナンの女に対して「あなたの」信仰は立派だと言っているだけで、「あなたがた親子の」信仰が立派だとおっしゃっているのではないのです。しかし、娘は救われました。母親の執り成しによって、イエス様に顧みていただいて、癒しを得ることができたのです。ここに私たちの「誰が救われるのか」「イエス様を知らない家族はどうなるんだろうか」という問いへの一つの答えが示されているように思います。信仰をもつあなたの執り成しによって、たとえイエス様を知らなかったとしても、神様はきっとその人を顧みてくださると言うことができるのです。

神様の救いの約束は決して取り消されないもの、すべての信じる人に与えられるものです。そしてカナンの女の娘が癒されたという事実には、直接イエス様を信じることがなかった人でさえも、イエス様の救いの範疇に入っているということが示唆されています。今日本の文化に生きる私たちは先祖を思い、家族を思う時を過ごしています。そんな時にこの聖書の御言葉から、神様の救いはすべての人に及ぶということを信じてまいりたいと思います。


 
 
 

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