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天の国のお話

2020年7月26日 聖霊降臨後第8主日

マタイによる福音書13章31~33節と13章44~52節

これまで先週、先々週とイエス様のたとえ話を聞いてきました。今日もその続きです。さらに色々なたとえ話を聞いていきます。今日のところは複数のたとえ話が連続して語られていますね。「からし種のたとえ」「パン種のたとえ」「畑の宝のたとえ」「高価な真珠のたとえ」そして「網にかかった魚のたとえ」です。これらすべてのお話は、イエス様が天の国について語られたたとえ話です。天の国、つまり神の支配がどのようにしてやってくるかを、イエス様は身近なものを引き合いに出して語っておられます。

この中で「網にかかった魚のたとえ」は先週の「毒麦のたとえ」とよく似ているので今週は詳しく触れないことにいたしますが、ほかの四つのたとえが特に語るのは、天の国の力強さです。「からし種のたとえ」「パン種のたとえ」からはそれがストレートに感じられます。からし種(マスタードの種)は0.5ミリくらいの小さな小さな種ですが、成長すると大きな木になり、時には4メートルほどの高さになるそうです。同じようにほんの少しのパン種(イースト菌)も、三サトン(約40リットル)もの小麦粉を膨らませる力を持っています。このように、天の国は、はじめ人間の目には小さく見えても、確かに働いて、やがて大きく成長するということが語られています。神様の力の及ぶ範囲が、この地上に確かに広がっていくのです。一方でこの成長は人間の力によるものではありません。種から芽が出るのも、パン種が化学反応を起こして発酵を促すのも、人間の努力と根性によるものではありません。ただ「そういうもの」「神様の驚くべき力によるもの」なのです。

続く「畑の宝のたとえ」「高価な真珠のたとえ」もまた、天の国の力強さを私たちに教えます。ある人が畑に宝が隠されているのを見つけます。その宝があまりに素晴らしいものだったので、その人は持ち物をすっかり売り払って、畑ごと買い入れます。その宝を合法的に自分のものにするためです。天の国とはその畑の宝のように価値のあるもの、全財産と引き換えにしても手に入れたくなるものであるというのです。「高価な真珠のたとえ」もこれとよく似ています。ある商人が真珠を探していて、思いがけずとってもいい真珠を見つけて、同じように持ち物をすっかり売り払ってその真珠を買います。天の国はその真珠のように、私たちの持っているどんなものよりも価値のあるもの、迷わず手に入れたくなるものです。

このとき「畑の宝」「高価な真珠」もまた、人間の努力や計算を超えてそこにあります。どうしてそれと出会ったのか、人間の目には不思議に映るほどです。もし私がこの話を聞いていたら「その宝がすばらしいことはわかりましたけど、じゃあどうやったらそんな畑に巡り合えるのでしょうか」と質問したくなったと思います。畑の宝を見つけた人は、別にお宝ハンターではありません。日夜お宝探しにいそしんでいたわけではなくて、むしろほとんど偶然にそれを見つけたかのような書き方を聖書はしています。真珠を見つけた商人にしても、もちろんこの人は良い真珠を探してはいましたが、しかし全財産を売り払って買うほどのお真珠を最初から探していたわけではありません。普通に生活のために商いをしていたら、なぜかとんでもなく価値のある真珠に出会ってしまったのです。天の国は私たちが必死で探すから現れるのではなく、ただ私たちの行く先で私たちを待っていてくれるのです。

畑の宝を見つけた人、高価な真珠に出会った商人。それからの二人の行動はよく似ています。二人とも何のためらいもなくすべての持ち物を売り払ってその畑、その真珠を買いました。人は天の国に出会う時、その価値に目覚め、なににもましてそれを求めるようになる、ということが語られています。天の国には成長する力があるのと同時に、人を神のもとへ招く力、人に信仰を与える力があるのです。

このように天の国は力強いものです。一見すると小さなもの、取るに足りないものに見えながら、不思議な力を持っていて、やがて大きく成長します。天の国が成長するために私たちができることはわずかでも、天の国はそれ自体大きく育つ力を持っています。そしてまた天の国は、この世のどんなものよりも価値のあるものです。人間のほうから探しに行ったわけではないのにそこにあって、私たちにその価値に気付かせ、私たちがなににもましてそれを求めるようにと、信じる力を与えてくれます。天の国に入ろうと思って入り口を探しに行く必要はありません。天の国のほうが、私たちを招き、私たちを待っているのです。今日のイエス様のお話から、神様の大きな力を改めて思い起こし、神様のご計画に信頼してまいりたいと思います。


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