top of page

イエス様に頼る

2020年7月5日 聖霊降臨後第5主日

マタイによる福音書11章16~19節と11章25~30節

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」とイエス様は言われます。私のもとに来て休みなさい、あなたの抱える重い荷物を、私のこの軽い荷物と交換してあげようとイエス様は招いておられるのです。イエス様が「重荷」と言われたものは、第一義的には律法のことを指しました。イスラエルの人々が守っていた、生活全般を支配する宗教的な決まりごとです。それをあなたはもはやこれまでのように負わなくてよいとイエス様は言われます。律法の重荷を実感することがない私たちにとってもイエス様にゆだねてしまいたい重荷はたくさんあるのではないでしょうか。仕事のこと、家庭のこと、健康のこと、将来のこと。私たちは生きる上で様々なものを背負い込んでいるのです。それをおろして休めとイエス様は呼びかけます。とてもよい知らせ、またとない幸運です。

でも、私は思うのです。イエス様に重荷をおろして休みなさいと言われて、はいそうですかと言ってさっさと休むことができる人はどれだけいるでしょうか。私たちは休むことが下手だと思います。この世の中を見渡してみたとき、どうしてこんなに多くの人が働きすぎて疲れているのでしょうか。どうしてこんなに多くの人が病気になって休んでいる時でさえも罪悪感にとらわれているのでしょうか。どうしてみんな、自分はこんなに頑張ってる、こんなにも多くの重荷を背負って、そしてこれは私以外の誰も背負うことができないのだと、本当は言いたくてたまらないのでしょうか。自分が頑張ってるって認めてほしくて、自分より頑張ってなさそうな人を見ると批判したくなるのはどうしてでしょうか。本当は休んでもいいのに、本当は手伝ってもらってもいいのに、休みたい、助けてほしいと言えないのはどうしてでしょうか。

私たちには、私たちを苦しめているはずの重荷が、いつしか私たちそのもの、私たちの存在証明のように思えてくることがあります。私がどれだけ働いたか、どれだけ頑張ったか、が私の生きる証であるように思えてくるのです。いつも忙しく働いて、誰かの役に立っていないと、自分には生きている価値がないように思えて、必死で頑張ってしまいます。私たちの負っている重荷がどれも、私たちのアイデンティティ、私たちの人生そのものであるならば、それをおいそれと下ろすことはできません。たとえどんなに親しい人であっても、それをあずけることはできません。

今日の福音書の前半部分で、イエス様は、ご自分の招きにこたえる人が多くないということを語られています。洗礼者ヨハネに悔い改めを呼びかけられても、イエス様が宣教をされても、多くの人はこれまで通りの生活を選びました。なんで呼びかけに答えないんだろう、イエス様の言うこと聞いておけば幸せになれるのに、と思うかもしれません。しかし今の私たちも同じようなものではないでしょうか。イエス様がどんなに休ませてあげようと言っても、働き続けることを選んでしまう私たちがいます。イエス様に重荷を担ってあげようと言われても、それは私にしか運べないものなので触らないでくださいと、助けを拒んでしまう私たちがいます。イエス様に従う道がどんなに平安で、どんなに自由なものであったとしても、私たちは、私の思う「私の人生」を手放すことができずに重荷を抱え、休まずに歩き続けようとしてしまうのです。

しかしイエス様は私たちに語り掛けておられます。私のもとに来て、休みなさいと。休むこと、重荷を下ろすことを拒んではならないとイエス様は言われます。そもそも聖書において、休息というのは聖なる行為です。創世記において、神は創造のあと第七の日に、ご自分の仕事を離れて安息なさいました。そして人間にも、その日を聖別して安息するように命じられます。人が労働を離れて休み、神様のことを思い出すためです。安息日は自分の抱えている様々な重荷からいったん離れて、神に心を向ける時でした。神によって造られ、神によって生かされていることを感謝する時でした。信仰者にとってそれ以上に大切なことが、何かあるでしょうか。

ですから、イエス様は「わたしのもとへ来て休め」と言われます。私たちが自分の重荷、自分のプライドを離れて、神を思うためです。さらにイエス様は「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」と言われます。私たちは、休んで、イエス様に学び、そしてイエス様にならって再び歩き出すことを求められているのです。休息は、働いていない間の無駄な時間ではありません。神に思いを向け、神を知り、神と共に生きるための、大切な時間です。私たちは、働いている時間こそが、自分の価値を高めてくれると信じています。しかし聖書はまったく逆のことを教えます。休む時、私たちは神に思いを向けることによって自分の本当の価値に気付くことができるというのです。それは私たちが神の子であり、神に愛されていて、神様と一緒に生きていることを思い出すということです。重荷を担って歩いている間、私たちは、自分と自分の重荷のことで頭がいっぱいです。自分の背負っている荷物が一番重く見えて、楽をしていそうな人を批判したくなります。しかし重荷おろして休む時、私たちは神に心を向けて、隣人を思いやることができるようになるのです。そして神様はそのような生き方に私たちを招いておられます。

イエス様は、あなたがあなたなりに頑張っていることをご存じです。あなたにしかわからない重荷を、あなたがたったひとり運んでいることをご存じです。そんなあなたに、イエス様は休みなさいと言われます。イエス様はあなたに、もっと頑張りなさいとは言いません。頑張っていない誰かを批判しなさいとも言われていません。ただ私のもとへ来て、休めと言われているのです。あなたが何をどれだけしたかが、神にとってのあなたの価値ではないとイエス様は言われます。そうではなくて、あなたの価値はたった一つ、あなたが神の子であるということによっているというのです。どんな時も神様のものとされ、神様と共に歩む、神様に愛されている人。それが究極的なあなたであるとイエス様は語り掛けます。だからこそ、イエス様は重荷を下ろすこと、休んで神様に思いを向け、イエス様と共に再び歩き出すことに私たちを招かれているのです。

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」イエス様のもとに逃れ、重荷を下ろして休みましょう。そして私たちは神の子として、イエス様と一緒に再び歩き出したいと思います。


bottom of page