受け入れる人
2020年6月28日 聖霊降臨後第4主日 マタイによる福音書10章40節~42節
イエス様が弟子たちを宣教に送り出す場面の最後のところを読んでいきます。イエス様は弟子たちに対して、「何も持って行ってはならない」「恐れてはならない」ということを教えられました。しかしながら、イエス様の宣教活動においては、イエス様と弟子たちだけがいればそれでいいというわけではありません。それに加えて、彼らを迎え入れて世話をしてくれる人が不可欠なのです。弟子の派遣にあたって、イエス様は弟子たちを迎え入れてくれる人たちが、彼らの行く先に必ずいるということを語ります。そして、弟子たちを受け入れ、迎え入れる人は必ずその報い(ごほうび)を受けるということが語られているのです。
さらにイエス様は、イエス様の弟子たちを受け入れるということは、イエス様ご自身を受けいれるということと同じことだと言われています。そして、そうやってイエス様を受け入れるということはまた、神様を受け入れるということだとも言われます。ヨハネによる福音書13章20節でイエス様は、「わたしの遣わす者を受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、お遣わしになった方を受け入れるのである。」と語られています。イエス様の遣わす弟子を受け入れること、イエス様を受け入れること、父なる神様を受け入れることは、すべて同じことであると語られているのです。
それでは、弟子を受け入れるというのはどういうことでしょうか。私たちは何をすればよいのでしょうか。聖書の時代、お客さんを受け入れるというのは、(今もそうかもしれませんが)、大変な労力を必要とする仕事でした。ルカ福音書の7章をみますと、客が到着すると口づけをもって迎え、サンダルを脱がせて足を洗い、香油を客の頭に塗り、客の宿や食事に関して万全を期すことが求められていたことがわかります。有名な「マルタとマリア」の話では、マルタはイエス様の一行を迎え入れるためにてんてこまいで働きましたし、旧約聖書を見ても、アブラハムは家じゅうがひっくり返るくらいの勢いで客人をもてなしました。誰かを受け入れる、迎え入れる、というのは、本来多くのものを差し出すことが求められる行為です。
しかしイエス様が差し出すように求められたのは「冷たい水一杯」でした。もちろんパレスチナは日本のように水が豊富な土地ではありませんし、また今のように水道もありませんでしたから、水の一杯であってもそれなりの価値はあったはずです。しかしそうは言ってもイエス様の時代には井戸もありましたし、みんな水くらい普通に飲んでいます。水の一杯、そんなありふれたものを差し出すだけで充分だとイエス様はおっしゃるのです。イエス様は、ご自分は惜しまず与える方でありながら、私たちからは何も奪おうとされないお方です。イエス様は私たちに行くべき道、永遠の命、罪のゆるし、あらゆる恵みと豊かさを与えてくださるのに、ご自分とその弟子たちには水一杯与えてくれるだけで充分うれしいのだとおっしゃいます。イエス様は私たちにたくさんのものをくださりながら、ご自分とその弟子たちにはたった一杯の水でいいと言われるのです。
また、イエス様は、そうやって「冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」とおっしゃいます。それを与えることで報いを受けるのは、祝福されるのは、私たちだと言われるのです。イエス様が「与えなさい」とおっしゃるとき、それはイエス様のために差し出しなさいというのではなくて、私たちのため、私たちが祝福されるためだというのです。イエス様のためにと思って何かを与えるとき、最終的に満たされるのは私たちのほうであるということに気づかされます。
しかしそのたった一杯の水でさえ、私たちは知らずに拒んでしまうことがあるのではないでしょうか。私たちの信仰生活は反省の連続です。イエス様はご自分の弟子たちを「小さな者」と呼ばれます。「小さな者」という言葉は文字通り子どもを意味する場合もありますが、この場合は「取るに足らない者」「弱い者」の意味でしょう。イエス様とその弟子たちは、小さな者、何も持たずに旅を続ける者、社会的弱者であったからです。イエス様とその弟子たちは今も「小さくされた人」の姿で私たちを訪ねてくださっています。そしてわたしたちはいつでも水一杯を差し出すように招かれているのです。
私たちはいつでも人に優しくできるわけではありませんし、ほんの少しのものですら出し惜しみをしてしまうことがあります。人は生きている限り、本質的に自己中心的で、罪を犯すものだからです。(ケチは本能です!)それでもイエス様とその弟子たちは、何度でも、私たちのところを訪ねてくださいます。イエス様の宣教には、受け入れる人が必要だからです。そしてきっと何度でも、さまざまな形で、誰かのために何かを差し出すように、私たちを招かれます。与えることで、私たち自身が信仰を深め、祝福を受けるためです。イエス様は、ご自分は惜しまずお与えになりながら、私たちからは何も奪おうとされないお方です。私たちに分かち合うことを望まれ、そのような生き方に祝福を与えてくださるお方です。今日のみ言葉を聞き、反省して、励まされて、これからも信仰生活を送ってまいりたいと思います。