聖霊降臨
2020年5月31日 聖霊降臨 使徒言行録2章1節~21節
今日は聖霊降臨、ペンテコステの主日です。聖霊が降って、教会が誕生したことをお祝いする日にあたります。先週私たちは主の昇天の聖書箇所を読みました。昇天するイエス様を見送ったのち、弟子たちはイエス様の言いつけを守ってエルサレムに留まりました。「高いところからの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい」(ルカ24:49)とイエス様が言われたからです。さらに使徒言行録ではこの「高いところからの力」が「父の約束されたもの」(1:4)つまり「聖霊」(1:8)であると明かされます。弟子たちは自らの力で動くのではなく、父なる神によって約束された聖霊が与えられるのを待って、出かけて行くようにと言われています。
そうしている間に五旬祭の日がやってきます。五旬祭は、ユダヤ教の三大祭の一つです。(ちなみに三大祭とは、過越祭、五旬祭、仮庵祭を指します。)五旬祭は過越祭の日曜日から数えて50日目にあたり、小麦の収穫を祝うお祭りでした。祭りの時期、ユダヤ人たちはエルサレム神殿に巡礼するために世界各地からエルサレムに戻ってきます。そういうわけで、弟子たちのいたエルサレムは「天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人」でごった返していたのでした。
そこに「突然、激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家じゅうに響」きます。「激しい風」は旧約聖書においても神の臨在の象徴です。ホレブの山で、主がエリヤに現れた時、主が通り過ぎて行くみ前には非常に激しい風が起こったと書かれています(列王記上19:12)。また詩編では、神はさまざまな風を伝令としている、ということが言われています(詩編104:4)。激しい風が起こるところには、神がおられる。風と共に、一同が集まっていた家に神が現れ、そして一同は聖霊に満たされました。
聖霊に満たされた人々はそれぞれ違う言葉で語り始めます。そしてそれを聞いた人たちは世界の色々な地域から来ている人たちだったので、自分のふるさとの言葉が話されているのを聞いてびっくりしたと聖書は伝えています。聖霊に満たされた人々が最初に行ったのは「語る」ということ、それもユダヤの言葉だけではなくすべての言葉、世界各国の言葉で語る、ということでした。
この様子を見た人の中には彼らをあざける者もいました。あの人たちはただの酔っぱらいだと言ってばかにしていたのです。そこで、ペトロは他の十一人の弟子たちと共に立ち上がります。そして、話しはじめるのです。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります…」。これまで福音書で描かれてきたペトロとは打って変わって、落ち着きがあって、融和的な姿です。これまでのペトロは直情的でやや近視眼的な人物として登場します。服を着たまま湖に飛び込んだり、決して裏切らないと言った直後にやっぱり怖くなって逃げ出したり、そういうエピソードはみなさんもよくご存じだと思います。またヨハネ福音書18章においてペトロは、イエス様を捕えに来た手下の耳を剣で切り落とし、イエス様にいさめられています。なかなかに好戦的な人物だったわけです。
そのペトロが落ち着いて語り始めます。今目の前で起こっていることが預言の成就であること、イエスこそがメシアであるということ、そしてその救いはすべての人に及ぶということ…。聖霊を受けて、ペトロは変わりました。酔っぱらいだと言ってあざけられても、力任せに争うのではなく、冷静に語るべきことを語ったのです。ペトロと他の弟子たちは、聖霊に満たされた時、力をふるうことによってではなく、堂々と語ることによって伝道をはじめました。そしてペトロの言葉を受け入れた人々はその日のうちに洗礼を受けて仲間に加わりました。その数三千人ほどであったと記されています。これが聖霊降臨の出来事、教会の始まりです。
聖霊に満たされ、神の力をいただくと、私たちは神について語り、神を証しすることができるようになります。そういう時の言葉は、ペトロがそうであったように、誰かを力ずくで変えようとすることや、仲間にならない人を批判することを意図しません。また、ペトロがユダヤ人と異邦人(外国人)を区別しなかったように、聖霊が働くところでは、人を区別することもなくなります。聖霊を受けた時、人は、すべての人に、ただ神のことを語るようになるのです。そして、それが教会という集まりです。今日は、聖霊降臨の日、ペンテコステです。聖霊が私たちに降って、私たちを満たし、これからも私たちに神様の業を語らせてくださいますように。