イエス様を見送る
2020年5月24日 主の昇天
ルカによる福音書24章44節~53節
赤ちゃんは親の姿が見えなくなると泣き出します。専門用語では「母子分離不安」と呼ぶそうです。記憶能力が発達しきっていない子どものうちは「今は姿が見えないけど、また戻ってくる」ということが理解できません。それで、「今姿が見えなくなったということは、親はどこかへ行ってしまって、もう戻ってこないのではないか」と思い込んで激しく泣くんだそうです。人は成長する過程で、今姿が見えなくても、この人は私のことを捨てていない、必ずまた戻ってくるということを学んでいきます。
今日はルカ福音書の最後の部分を読んでいきます。イエス様との「分離」の場面です。弟子たちはイエス様とお別れして、今度は自分たちだけで新しい生活を送ることになります。ルカ福音書の続きが使徒言行録であるという理解が一般的ですが、その続きをいくら読んでも、肉体をもったイエス様が再び登場することはありません。この場面が一つの終わり、決定的なお別れです。それにもかかわらず、弟子たちには悲しんでいる様子がありません。むしろ弟子たちは大喜びでエルサレムに帰ったと聖書は伝えています。
弟子たちはイエス様にもう会えないんじゃないかという不安に苦しみません。自分は捨てられたんじゃないかという疑いを持ちません。弟子たちは、イエス様の姿が見えなくなっても、イエス様は自分たちのことを捨てていないという思いに満たされています。しかし初めからそうだったというわけではありません。弟子たちは、復活のイエス様と出会う体験を通して、イエス様と必ずまた会えるということを少しずつ知り、少しずつ信じていったのではないでしょうか。
今日の聖書の箇所で、イエス様は弟子たちに対して、ご自分に起こったことはすべて「まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたこと」だと言われます。確かにイエス様は9章において「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。(9:22)」、「この言葉をよく耳に入れておきなさい。人の子は人々の手に引き渡されようとしている。(9:44)」と予告されたのでした。しかしその時はまだ、弟子たちはその予告を受け止めきれなかったのです。9章45節には、弟子たちは「怖くてその言葉について尋ねられなかった」とあります。十字架と復活を予告されても、死ぬけどまた戻ってくると言われても、信じ切れない。私は死ぬとイエス様に言われると、不安や恐怖でいっぱいになる弟子たちがいたと思います。
しかし今日の聖書の箇所で弟子たちは信じました。イエスが死んで復活されたことを信じ、イエス様が再び来てくださることを信じたのです。イエス様は弟子たちの「心の目を開いて」くださったと聖書は語ります。聖書によれば、「心の目」とは聖書と神ご自身を知る目です。「この世の神が、信じようとはしないこの人々の心の目をくらまし、神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光が見えないようにしたのです。(Ⅱコリ4:4)」、「神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように。(エフェソ1:17~18)」などの記述があるように、心の目が開かれた時、人は神を知り、神を信じることができます。イエス様に心の目を開いていただいた者は、肉体の目には映らないイエス様を信じるようになるのです。
それはすごいこと、とても難しいことのように思うでしょうか。しかしこうして教会に集う私たちも同じことを経験していると思います。キリスト教のテイストってだいたい悲観的ですが、それでもイエス様が目の前に現れてくれないことを悲観して泣いてる人には会ったことがありません。こんなにイエス様のこと好きなのにイエス様なんで電話してくれないんだろう、イエス様なんで隣に引っ越してきてくれないんだろう、とか言っている人はまずいません。みんな、イエス様に会ったことがないのに信じているのです。電話してくれなくても近所に住んでなくても、必ずそばにいてくれるとどこかで知っているのです。
私たちはこの出来事の傍観者ではありません。弟子のように信じられない自分を反省し、自分を責めて終わるために今日この箇所が読まれたのではありません。そうではなくて、あなたも信じてるだろうと、今は姿が見えなくても、決してあなたのことを捨てていない、必ずあなたと出会ってくださるイエスを、あなたも信じてるだろうと、このみことばは語り掛けているように思います。そうであるならば、私たちがしたいのは、弟子たちのように共に神をほめたたえることです。イエス様の証人である私として、この社会で生きることです。姿が見えなく感じる時でも、イエス様は決して私たちのことを忘れません。そのことを弟子たちのように喜んでいたいと思います。