わたしは道であり、真理であり、命である
2020年5月10日 復活節第5主日
ヨハネによる福音書14章1節~14節
先週は小倉教会の記念堂(納骨堂)に来られたご家族がありました。お父様が亡くなってちょうど一年が経つそうです。記念堂というのは不思議な場所です。そこに亡くなった方がおられるわけではありませんが、しかし、ご遺骨が十字架と共にそこに納められているのを見ると、亡くなった方が神様と共に平安であるということがなんとなく感じられるような気がします。直方教会では一件のご葬儀がありました。葬儀もまた、悲しいお別れの時であるとともに、その悲しみの先にある永遠の命のよろこびに触れる機会です。死という一つの終わりが、実は新しい命への旅立ちであるということを知る時です。
今日の聖書の箇所では、イエス様は来るべき「別れ」について弟子たちに話しておられます。イエス様と弟子たちは、これからしばらくの間、別れていなければならないというのです。弟子たちの前からイエス様はいなくなる、この地上のどこにも弟子たちはイエス様を見つけることができなくなる、と聖書は語ります。実際にイエス様は十字架にかかって死なれ、ひとたび弟子たちの前に姿を現されましたが、やがて天に昇って行かれました。その後、今日に至るまで、この地上でイエス様の姿を見たという人は一人もいないのです。
しかしながらそれは、イエス様と弟子たち、またイエス様と私たちとの関係が消滅してしまったということを意味しません。もちろん、イエス様という存在が消えてなくなってしまったということも意味しません。3節においてイエス様は、ご自分が地上を離れて新しい場所に行くだけだとおっしゃっています。そしてその場所に、いずれ私たちも迎えてくださるというのです。イエス様はいなくなったわけではなくて、新しい場所で、今も私たちのために働いておられます。ですから教会では、死は終わりではないと教えています。亡くなった方々はこの地上を離れて、新しい、神様が用意してくださった場所で、神様と共に生きていると信じているのです。
とはいえ、聖書や教会がそう言っているからといって、そのことを信じるのには抵抗があるかもしれません。実際に、死んだ人と会ったことのある人もいませんし、その「場所」とやらを見たことがある人もいないからです。もっと証拠があればいいのになあ~と思うのも無理はないことと思います。実際にイエス様の弟子のトマスとフィリポも、疑いをもってイエス様に問いかけます。イエス様は結局どこへ行くんですか、イエス様が父なる神様と一緒におられるという証拠はありますか、というのです。
それに対してイエス様は言われます。私を見なさい、そして信じなさいと。それが人間にできることのすべてであるというのです。イエス様は道であり、真理であり、命です。イエス様は父なる神へ至る道です。父なる神様がどんなお方であるかを知るために、私たちはイエス様を知ります。イエス様の生涯とイエス様の言葉に「神とはどういうお方であるか」ということが示されているからです。イエス様は真理です。イエス様は人の中でただひとり、罪と偽りがなく生きたお方です。そしてイエス様は永遠の命です。イエス様は十字架で死んで復活され、今もこの世を治めておられます。私たちがいずれ父なる神様のもとで、真理を悟り、永遠の命に生きるということは、イエス様を通してしか知りようがありません。そしてそれは同時に人間の限界をも意味しています。長年聖書を読んで教会に集っていても、イエス様のことを完全に知り尽くすことはできません。同じように私たちは自分たちの命がどこから来てどこへ行くのか、真理とは何か永遠とは何か、完全には知ることができないのです。
ですから私たちにできることは、信じること、そしてイエス様を求めることです。亡くなった方のことを思い出す時、自分の命について考える時、イエス様が私たちのために場所を用意してくださっているという約束を思い起こすことです。亡くなった方がどこでどうしているかということも、自らの地上の生がやがて終わりを迎えることも、人間の力ではどうすることもできません。しかしイエス様は13節で「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう」と言われました。イエス様を信じて、イエス様のお名前によって祈ることだけが、私たちに与えられた、唯一であり最大の慰めです。
十字架で死なれて復活されたイエス様は、父なる神のもとで永遠の命に生きておられます。そしてその同じ場所に私たちはいずれ迎えていただくことができます。今日一日どんなことがあったとしても、いつかその場所でイエス様が迎えてくださるというのは、どんなにうれしいことでしょうか。先にこの世を旅立った大切な人たちが、その場所で平安に過ごしているというのは、どんなに安心なことでしょうか。イエス様がどんな願いもかなえてくださるというならば、それはどんなに心強いことでしょうか。みことばと信仰が与えられていることの恵みに感謝して、与えられた地上の生を終わりまで歩んでまいりたいと思います。