イエス様と出会う場所
2020年4月26日 復活節第3主日 ルカによる福音書24章13節~35節
私は2年間、アメリカの神学校に留学していたことがあります。その学校はアメリカのミネソタ州というとても寒いところにありました。寒さ対策ということもあって、神学校は一つの建物でできるだけ機能が完結するような造りになっていました。寒い冬、できるだけ外に出なくて済むようにということです。神学校の建物は地下一階が教室、一階がチャペル、二階と三階が学生寮という造りになっていました。学生たちはほとんどの時間をその建物の中で過ごして、そこで学び、そこで祈り、そしてそこで共同生活をするわけです。
同じように、感染症が流行している今、ほとんどの時間を家の中で過ごされている方も多いのではないでしょうか。家の中で仕事をして、日曜日もおうちで礼拝して、趣味なんかも家の中で楽しめることをする、といった具合です。それは息苦しい自粛生活とも言えますし、ちょっと視点を変えれば、ミネソタの神学生みたいな暮らし、と言うこともできるかもしれません。
ミネソタで私が暮らしていたその建物の名前は、英語でEmmaus Hallといいました。(イメウス・ホールと発音します。)Emmausは日本語で言うと、「エマオ」です。エマオという聖書に出てくる地名を指しています。神学生たちが一日のほとんどを過ごすその場所は「エマオホール」と名付けられていました。
どうしてこの名前になったのか、今となってはよくわかりません。しかし学生たちはそれぞれその意味を考えていたようです。クラスメイトの中に一人だけ、日本人の人がいました。同世代のカトリックの神父様だったんですけれども、ある日その神父様と話をしている時に、彼がふと、「エマオホールって名前、いいよね」と言ったんです。どうして?と私がたずねると、彼は「だってエマオはイエス様と出会う場所だから」と答えてくれました。なるほど、と思った私はエマオホールという日々の生活の場所を「イエス様と出会う場所」として意識するようになりました。
今日の聖書の物語は、復活の主と弟子たちの、エマオへ向かう道での出会いについて伝えています。イエス様が十字架にかかって死んだと思った弟子たちは、イエス様に付き従ってきた都エルサレムを離れ、失意のうちに、エマオという郊外の村に向かって歩いていたのでした。二人のうち少なくとも一人が、エマオに家を持っていたようです。22節にあるように、彼らは女性たちが空(から)の墓を発見したという情報を知っていましたが、かといってイエス様の復活を信じていたわけではありませんでした。すべての望みは失われてしまったと思って、暗い顔をしていた、と聖書は記しています。
そんな弟子たちの前に、復活したイエス様があらわれ、彼らと再び出会ってくださったというのが今日の箇所です。イエス様は二人に話しかけ、二人を叱り、しかし彼らにご自分について聖書に書かれていることを丁寧に説明されました。彼らに真理をさとらせて、彼らの心を再び燃やすためです。弟子たちははじめ、それがイエス様だとは気づきませんでした。しかしこの「見知らぬ人」のただならぬ説得力に、彼らはこの人を引き止めて、一緒に泊まってもらいます。そうしてイエス様がパンを裂いた時、ついに弟子たちの目は開かれ、それがイエス様だと分かるのです。エマオの家の中での出来事でした。
こうして聖書が伝えているように、エマオはイエス様と出会う場所です。それも、神殿や礼拝所のようにわざわざ出かけて行って出会う場所ではありません。そうではなくて、家の中で、道の上で、すでに一緒にいてくださるイエス様に改めて出会う場所です。最初はイエス様に見えなかった誰かが、イエス様だったと気づく場所です。
アメリカにいたころの私にとって、エマオホールはまさにイエス様と出会う場所でした。そこで学び、そこで祈り、そこで暮らす日々の中に、イエス様は確かに私と共にいてくださったと感じます。そして今、私たちがそれぞれに過ごす場所もまた、イエス様と出会う場所です。それは自宅であったり療養先であったりすると思いますが、それでもそこが、私たちにとってのエマオです。
教会がお休みになって、礼拝がなくなるのはさみしいことです。けれど私たちは教会に行かないとイエス様に出会えないわけではありません。今日の聖書の物語で、イエス様はイエス様のほうから弟子たちに近づいて来て、一緒に歩き始められ、そしてエマオの家で彼らに現れてくださいました。その同じイエス様が、今日、あなたに近づき、あなたと共に歩み、あなたの家に入ってあなたの目を開いてくださいます。今、あなたがいる場所に、イエス様は現れてくださるのです。おうちで過ごすこの日曜日に、神様の祝福がありますように。